埋立地のガラス塔
これから語るのは、東京湾に面したあるオフィスビルで実際に起きた、世にもおぞましい企業の崩壊記録である。
運河を渡る夜風が吹き抜けるあの街では、今もなお、深夜のオフィスフロアから奇妙な打鍵音と、女たちの恍惚とした悲鳴が聞こえてくるという……。
東京都江東区豊洲。かつて造船所や倉庫が並んでいた広大な埋立地は、今や巨大なガラス張りのインテリジェントビルが林立する最先端のビジネス街へと変貌を遂げていた。潮の香りをわずかに含んだ風が、整然と舗装された遊歩道の街路樹を揺らしている。
その一角にそびえ立つ高層ビルの二十四階、中堅システムインテグレーション企業の第一システム開発部に、僕──蒼井颯太が配属されたのは、秋風が肌寒さを増し始めた十月初旬のことだった。
(よし、今日からここが僕の現場なんだな……!)
半年間に及ぶ過酷な新人研修を無事に乗り越え、真新しいスーツに身を包んだ僕は、希望に胸を膨らませていた。周りからは「爽やかな好青年」などと持て囃されることもあったが、自分ではただの真面目な新入社員だと思っている。
「おはよう、蒼井くん。今日から私のチームね。歓迎するわ」
僕のデスクの前に立ち、凛とした声で微笑みかけたのは、チームリーダーの水無月涼子さんだった。社内でも「仕事が速くて完璧なシゴデキ上司」として名高い美人で、切れ長の瞳と、背筋の伸びたタイトスカート姿が印象的な女性だ。
「おはようございます、水無月さん! 一日でも早く戦力になれるよう、精一杯頑張ります!」
「ふふ、いい返事ね。素直で爽やかな子は大好きよ」
水無月さんは満足そうに目を細め、艶のある黒髪を耳にかけた。その指先が、僕のデスクに置かれたノートパソコンの天板をそっと撫でる。まるでまだ誰の色にも染まっていない真っ白なキャンバスを愛でるかのような、どこか熱を帯びた視線だった。
「さっそくだけど、蒼井くんには来週から始まる新規モジュール開発の基本設計書を書いてもらおうかしら。社内チャットでテンプレートを送っておいたから、まずはそれを開いてみて」
「はいっ! ただちに確認します!」
僕は意気揚々とマウスを握り、チャットツールに添付されたファイルをクリックした。
しかし、画面に表示されたファイル名とアイコンを見た瞬間、僕の指はぴたりと止まった。基本設計書_標準テンプレート_v4.2.docx
(……え? ドックエックス……?)
画面の中央で、青い「W」のアイコンが誇らしげに輝いている。
僕は思わず瞬きを繰り返した。半年間の新人研修で、僕たちが朝から晩まで叩き込まれてきたのは、緑色のアイコン──すなわちExcelを使った設計書作成だったはずだ。すべてのセルを正方形に整えた通称「方眼紙」の上に、幾重にも結合されたセルで枠線を引き、テキストを詰め込んでいくあの伝統技法こそが、この会社の唯一絶対のルールだと教わってきた。
「あの……水無月さん。すみません、ファイルが間違っているようなのですが……」
僕が恐る恐る顔を上げると、水無月さんは小首を傾げた。
「あら、どういうこと?」
「その、いただいたテンプレートがWordになっているんです。僕、新人研修ではずっとExcelで設計書を書くように指導されてきたので……もしかして、別資料を添付されたのかなと思いまして」
その言葉を口にした、まさにその刹那だった。
ピキッ
空調の稼働音しか聞こえない静かなオフィスで、水無月さんのこめかみが確実に音を立てて引き攣った。
彼女の纏う空気が、一瞬にして氷点下へと急降下する。窓の外の東京湾から吹き上がる冷気がガラスを突き破って流れ込んできたかのような錯覚に、僕の背筋がぞくりと粟立った。
だが、次の瞬間には、水無月さんの顔には聖母のような微笑みが戻っていた。
「……そう。まだそんな野蛮な呪いを吹き込んでいる人間が、この会社にいるのね」
「え……?」
「いいこと、蒼井くん」
水無月さんはすっと身を屈め、僕の耳元に唇を寄せた。ふわりと上品なホワイトフローラルの香水の匂いが鼻腔をくすぐり、心臓が跳ねる。
「設計書というのはね、『文書』なのよ。表計算ソフトのマス目をちまちまと塗り潰して、印刷範囲のズレに怯えながらセル結合を繰り返すなんて、人間のすることじゃないわ。Wordを見てごらんなさい。『見出し1』『見出し2』とスタイルを定義するだけで、美しい階層構造が生まれ、目次が自動で生成されるの。ページを跨いでも文章は自然に流れ、余白は常に完璧な秩序を保つのよ」
「は、はあ……」
「あなたはまだ真っ白なテキストファイルみたいなもの。そんな粗野な方眼紙の檻に閉じ込められるなんて、私が許さないわ。私が一から十まで、私の定義した『標準スタイル』で、あなたを綺麗にフォーマットしてあげる……」
水無月さんの瞳の奥に、どろりとした暗い情念の炎が揺らめいていた。しかし、彼女の丁寧な指導と、理路整然としたWordの操作解説を聞いているうちに、純粋だった僕は「なるほど、確かに文書作成ソフトで文書を書くのは理にかなっているな!」とすっかり納得してしまったのである。
それから一週間、僕は水無月さんの手ほどきを受けながら、Wordでの基本設計書作成に没頭した。水無月さんは毎日僕の隣にぴったりと寄り添い、ショートカットキーやスタイルの適用方法を優しく、時に吐息が触れそうな距離で教えてくれた。
二十四階・北側執務室・午後三時
異変が起きたのは、翌週の火曜日の午後だった。
「蒼井くーん! 元気でやってる? 新人研修のフォローアップで様子を見に来たわよ!」
明るい声とともに第一システム開発部のフロアにやって来たのは、人事教育部の緑川愛梨さんだった。半年間、僕たち新人にみっちりとシステム開発の基礎を叩き込んでくれた講師であり、ふわふわとした茶髪の巻き髪と、愛嬌のある笑顔が魅力的なお姉さん的存在だ。
「あ、緑川さん! お久しぶりです!」
僕が立ち上がって挨拶すると、緑川さんは嬉しそうに駆け寄り、親しげに僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「相変わらず爽やかでいい笑顔ね! 研修が終わって蒼井くんの顔が見られなくなってから、私、毎日寂しくてたまらなかったんだから。ちゃんと私が教えた通り、お仕事できてる?」
「はい! 今ちょうど、新規モジュールの基本設計書を書いているところなんです」
「まあ、もう基本設計を任されてるの? さすが私の自慢の生徒ね! どれどれ、セルの幅はちゃんと20ピクセルに揃えてるかしら……」
緑川さんがウキウキとした様子で僕のモニターを覗き込んだ。
そして、画面上に広がる白いページと、青いリボンUIを目にした瞬間──彼女の顔からすべての表情が抜け落ちた。
「…………なに、これ」
ゴォォォ……
どこからともなく、地鳴りのような低い音が響いた気がした。緑川さんの華奢な肩が小刻みに震え、綺麗な瞳が血走っていく。
「蒼井くん……? どうして、画面が青いの? どうして……方眼紙のグリッド線がないのよぉぉぉっ!!」
「ひぃっ!? あ、あの、これは水無月リーダーからいただいたWordのテンプレートで……」
「Wordですって!? 設計書をWordで書くなんて、そんな邪教が許されると思ってるの!?」
緑川さんの金切り声がフロアに木霊した。周囲の社員たちが一斉に顔を伏せ、関わらないように耳を塞ぐ。そこへ、会議室から戻ってきた水無月さんが、冷ややかな足音を響かせて歩み寄ってきた。
「騒々しいわね、緑川さん。ここは開発現場よ。人事教育部の人間が、私のチームの標準規約に口を出さないでくれるかしら」
「水無月涼子……っ! やっぱりあなたの仕業ね! 私が半年間、手塩にかけて育てた蒼井くんに、なんて汚らわしいフォーマットを刷り込んでるのよ!」
二人の女性が、僕のデスクを挟んで睨み合う。空間が歪むほどの殺気が渦巻き、蛍光灯がチカチカと不気味に明滅した。
「汚らわしいのはどちらかしら、緑川さん」
水無月さんが氷のような笑みを浮かべて言い放つ。
「今どき『神エクセル』なんていう前時代の遺物を新人に強要するなんて、虐待と同じよ。セル結合されたマス目に無理やり文章を詰め込んで、Alt + Enter で改行位置を手動調整? 一行修正するたびに結合を解除して高さを直すなんて、どれだけ工数をドブに捨てる気なの? 挙句の果てに、誰かが画面の拡大率を変えただけでオートシェイプの矢印が全部ズレて崩壊するじゃない。あんなものは設計書じゃないわ、ただのデジタルの折り紙よ!」
「黙りなさいよ、このスタイル崩壊女!!」
緑川さんが机をバンッと叩き、猛然と噛みついた。
「Wordこそ人類が生み出した最悪のブラックボックスじゃない! ちょっと行頭でスペースを打っただけでお節介なオートコレクトが勝手にインデントを変えて、番号付きリストが意図しない階層に吹っ飛ぶ! 図表を一つ挿入すれば、謎のアンカーマークが暴走して画像が別ページの彼方へ消え去る! 一つのファイルの中で『機能一覧』『画面レイアウト』『テーブル定義』をシート分けして一元管理できるExcelの圧倒的な一覧性と包容力が、あんたみたいな単一ストリーム脳には理解できないのよ! 蒼井くんはね、私の美しいシートの上で、私の定義した関数通りに動くべきなの!」
「ふざけないで! 複数のシートに仕様が散らばるから、検索性も落ちれば印刷設定の漏れでページが真っ二つに割れるんでしょう! 『A4横・1ページに収める』の設定をし忘れたExcel設計書が、会議室のプリンターから白紙に罫線一本だけの紙を何十枚も吐き出す惨状を何度見たと思ってるの!? しかも誰かが勝手に列を挿入したせいで、下の方の結合セルが全部崩壊してレイアウトがぐちゃぐちゃになるじゃない! 蒼井くんは私の文書構造の中で、見出しから本文まで一糸乱れず管理されるのが一番美しいのよ!」
「なんですって!? そういうあんたのWordだって、表のセルの中でTabキーを押した瞬間に次のセルへ移動しちゃうから、Ctrl + Tab なんていう変態的な指の動きを強要するじゃない! 変更履歴をオンにすれば画面の右側に赤い風船が何百個もぶら下がって本文が一行も読めなくなるくせに! 蒼井くんの純粋な思考を受け止められるのは、無限に広がる104万8576行×16384列の広大なワークシートだけなの! あんたみたいな窮屈な余白設定の女に、彼のポテンシャルは収まらないわ!」
「あら、その広大なワークシートとやらで、Ctrl + ↓ を押した瞬間に104万行目の虚無の深淵まで吹っ飛んで迷子になる新人が毎年何人出ているかしら? 私のナビゲーションウィンドウなら、蒼井くんがどこにいても一秒で見つけ出して、私の腕の中にスクロールしてあげられるのに」
「黙りなさいよ! 蒼井くんのカーソルがどこにあろうと、私が NameBox で常にセル番地を監視してあげるから問題ないのよ!」
(こ、怖い……! 二人とも、設計書の話をしているはずなのに、なんで僕を所有物みたいに奪い合っているんだ……!? というか、お互いのソフトの欠点に対する解像度が異常に高すぎる……!)
圧倒的な熱量で繰り広げられるオフィスソフトの罵り合いと、その裏に滲む異常な独占欲に、僕はただ震えるしかなかった。二人の視線が火花を散らすたび、僕の背中を冷たい脂汗が伝い落ちていく。
やがて、周囲の視線に気づいた水無月さんが「……これ以上は業務妨害よ。お引き取りなさい、人事教育部さん」と冷たく告げると、緑川さんはギリッと奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
去り際、僕の横を通り過ぎる緑川さんの唇から、地の底から響くような怨嗟の呟きが漏れたのを、僕は確かに聞いてしまったのだ。
「……あのアバズレ、絶対にただじゃ済まさないから……『元に戻す』が効かないように、物理的に削除してやるわ……」
連休明け・空白のリーダー席
三連休が明けた火曜日の朝。
オフィスに出社した僕は、奇妙なざわめきに足を止めた。
「おい、水無月さんがまだ来てないぞ……」
「えっ、あの人が? 入社以来十年間、一度も遅刻も欠勤もしたことがない皆勤賞の鉄人なのに?」
「スマホも電源が入っていないみたいだ。昨日の夜から連絡が取れないって部長が青ざめてたぞ……」
僕の隣のリーダー席は、不気味なほど綺麗に片付いたまま、主を失っていた。
電話をかけても、『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』という無機質な合成音声が繰り返されるばかり。
そのまま丸一日が過ぎても、水無月さんは出社してこなかった。警察に捜索願が出されたという噂が流れ、開発フロアが重苦しい不安に包まれた水曜日の朝──人事部から異例の通達が下りた。
「水無月リーダーが復帰するまでの間、臨時で第一システム開発部のマネジメントを兼任することになりました、緑川愛梨です。みんな、よろしくね!」
フロアの入り口に現れた緑川さんは、満面の笑みを浮かべていた。
そのまま真っ直ぐに僕の隣──かつて水無月さんが座っていたリーダー席へと歩み寄り、当然のように腰を下ろす。
「今日から私がずっと隣にいてあげるからね、蒼井くん。さあ、あの忌々しいWordファイルはゴミ箱に捨てて、今日からはExcelで設計書を書いてね」
「あ、はい……」
優しく微笑む緑川さんの顔を見て、僕は息を呑んだ。
彼女の白い左頬から首筋にかけて、まるで鋭い爪で必死に抵抗されたかのような、生々しい三本の引っ掻き傷が赤黒く残っていたのである。さらに、彼女のパンプスの先には、乾いた泥と、どこか磯の匂いがする白い塩の結晶のようなものがこびりついていた。
「あ、あの……緑川さん、そのお顔の傷、どうされたんですか……?」
おそるおそる尋ねると、緑川さんはパチパチと瞬きをして、自分の頬に指を当てた。
「ああ、これ? ふふっ、金曜の夜、ちょっと豊洲の運河沿いをお散歩していたら、うっかり転んじゃっただけよ。夜風が強くて、波がとっても高かったから……」
ニコニコと無邪気に笑う緑川さんだったが、その瞳はまったく笑っていなかった。信憑性はゼロどころかマイナスに振り切れている。
(う、運河沿い……!? まさか、水無月さんが音信不通になったのって……!? いやいや、そんなはずはない、考えすぎだ!)
僕は必死に自分に言い聞かせ、震える手でExcelを起動した。
その日の夜。残業で遅くなった僕が給湯室で温かいコーヒーを淹れて戻ってくると、すでに他の社員が退社して消灯された薄暗いフロアの一角で、緑川さんが一人、モニターの青白い光に顔を照らされながら、くつくつと忍び笑いを漏らしていた。
カタカタ……ッターン……クスクス……
異様な気配に足を止め、パーティションの陰から背後をそっと覗き見た僕は、彼女の画面に開かれている業務とは無関係の巨大なExcelブックを目撃し、全身が凍りついた。蒼井颯太_完全掌握ロードマップ_v1.08_マクロ有効.xlsm
そこには、僕が出社した時刻、僕との会話回数、視線が合ったコンマ秒単位の計測値、さらには僕が昼休みに食べた定食のメニューと午後のあくびの回数までが、緻密なピボットテーブルによって縦横無尽に集計されていた。そして、VLOOKUP や INDEX、MATCH、さらには画面の端から端まで埋め尽くすほど複雑怪奇にネストされた IFERROR 関数と配列数式によって、「現在の好感度スコア」「精神的退行率」「完全陥落予測日」がリアルタイムで自動算出されていたのである。
画面の右側には、僕の自我崩壊度を示す近似曲線付きの散布図と、同棲・入籍・退職勧告・自宅軟禁までのマイルストーンを分刻みで描いたガントチャートが極彩色のグラデーションで並んでいる。
「ふふ、ふふふ……データ分析の結果は嘘をつかないわ……このまま線形回帰トレンド通りに優しさと恐怖の飴と鞭パラメーターを入力し続ければ、来月の第三金曜日には条件付き書式がすべて真っ赤なセルに染まって、蒼井くんの心も体も私のブックの中で永久にセル結合されるのよ……シートの保護パスワードは、私だけのヒ・ミ・ツ……」
緑川さんの顔を緑色の液晶光が下から不気味に照らし出し、能面のような深い陰影を作り出していた。僕は喉の奥からせり上がる悲鳴を必死に飲み込み、靴音を殺して後ずさりすると、非常階段を駆け下りて夜のオフィスから逃げ出した。
品質管理課の乱入・潮風の再来
翌朝。悪夢にうなされ、寝不足で目の下に濃いクマを作って出社した僕を待っていたのは、さらなる混沌の幕開けだった。
「ちょっと、第一システム開発部の責任者はどなた? 昨日提出された基本設計書のフォーマットについて、重大な是正勧告があるんだけど」
カツカツと鋭いピンヒールの音を響かせてフロアに乗り込んできたのは、品質管理課の課長代理、黒羽詩織さんだった。銀縁のアンダーリム眼鏡の奥で理知的な瞳を冷ややかに光らせ、タイトな黒のパンツスーツを隙なく着こなした、社内でも「氷の監査人」として恐れられる強気な美貌の上司である。
「あら、黒羽さん。わざわざご足労いただき恐れ入るわね。今は私がここの臨時リーダーよ。うちの可愛い蒼井くんが一生懸命書いたExcel設計書に、何か文句でもあって?」
緑川さんが立ち上がり、笑顔の仮面の下に激しい警戒心を露わにして応戦する。しかし黒羽さんは鼻で笑い、手元のタブレット端末を緑川さんの鼻先に突きつけた。
「文句どころじゃないわ、監査不合格よ。今すぐExcelでの設計書作成を全面禁止にしなさい。今日からこの部署のドキュメントはすべて、マークダウンで記述してGitリポジトリで管理してもらうわよ」
「なんですってぇぇぇっ!?」
緑川さんが烈火のごとく激昂し、デスクを叩いた。
「ふざけないでちょうだい! 記号と文字だけの味気ないメモ帳みたいなテキストファイルで、どうやってエンタープライズ向けの複雑な画面設計や帳票レイアウトを表現するっていうのよ! 自由な位置に罫線も引けない、セルの背景色も塗れない、図形も配置できない、そんな原始時代の遺物で設計書が書けるわけないでしょう!」
「だからあんたたちレガシー量産部隊は救いようがないのよ、緑川さん」
黒羽さんは冷酷に眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、僕のデスクのマウスを勝手に握って画面上にGUIエディタを立ち上げると、マウスドラッグでテキストを範囲選択しながら一切の淀みない口調で理路整然とまくし立てた。
「ExcelやWordみたいな肥大化したバイナリファイルが、どれだけプロジェクトの構成管理を汚染しているか分かってるの? 基本設計書_最新_最終版_本当に最終_20261014_緑川修正_確認済(2).xlsx なんていうふざけたファイル名でファイルサーバーを埋め尽くして、誰がいつどのセルを書き換えたのか差分すら満足に取れないじゃない! マークダウンを見なさい。純粋なプレーンテキストだからGitで一行・一文字単位の厳密なバージョン管理が可能で、プルリクエスト上でソースコードとまったく同じ作法でレビューができるのよ。見出しは #、箇条書きは -、強調は `。無駄な視覚装飾という邪念を削ぎ落とした構造化テキストこそが、現代のソフトウェアエンジニアリングにおける唯一の聖典なの!」
「なっ……! でも、お、お客様に提出する時にテキストファイルなんか出せるわけないじゃない!」
「Pandocや静的サイトジェネレーターをCIパイプラインに組み込めば、コミットした瞬間に美しいPDFでもHTMLでも自動ビルドできるわ。人間が手で余白やフォントサイズをいじること自体がバグの温床なのよ」
緑川さんがぐうの音も出ずに言葉を詰まらせた隙に、黒羽さんはそのまま僕のデスクに腰掛けながら、しなやかな指先で僕の顎をクイッと持ち上げた。
「あっ……」
黒羽さんの胸元が大胆に開いたシルクのブラウスから、大人びたスパイシーなムスクの香りがふわりと漂う。銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳が、獲物を品定めする肉食獣のように妖艶に細められた。
「ねえ、蒼井くん。こんな古いバイナリ女たちの言うことなんて、もう聞く必要ないわよ。若くて優秀な子は順応性が高いから、マークダウンの記法なんて一日で馴染めるわよね? 私が直々にプライベートリポジトリに招待してあげるから、これからは私だけにコミットして……あなたの思考も、履歴も、すべてを私のローカル環境にクローンさせてちょうだい」
「く、黒羽さん、顔が近いです……!」
「ちょっと黒羽さん! 私の蒼井くんから離れなさいよ! 彼をそんな色気のない記号だらけのテキストに染めないで!」
緑川さんが血相を変えて僕の左腕を掴んで引き剥がそうとし、黒羽さんが僕の右腕を掴んで自分の胸元へと引き寄せる。
「蒼井くんは私のワークシートの上で、私の関数通りに動くの!」
「いいえ、彼は私のマスターブランチに私自身の手でマージするのよ!」
二人の美女に両側から腕を引っ張られ、柔らかい感触と恐ろしい握力の狭間で僕の理性と肩関節が悲鳴を上げた、まさにその時だった。
ペチャ……、ペチャ……、ズルル……、ピチャ……**
空調の音もかき消すような、奇妙に湿った水音が廊下から響いてきた。
フロアの入り口の自動ドアが、センサーの前に誰も立っていないはずなのに、ゆっくりと不気味に開いた。
そこから室内に流れ込んできたのは、鼻をつく濃厚な東京湾のヘドロと、冷たい潮の香り。そして、グレーのタイルカーペットにどす黒い海水の水溜まりを広げながら、ひとつの影が這いずるように現れた。
「……え?」
緑川さんの顔から、急速にすべての血の気が引いていく。
やがてぬらりと立ち上がったその姿は、全身ずぶ濡れのダークスーツを纏い、美しい黒髪の頭にワカメやアオサ、さらには小さなヒトデまでも大量に載せた、水無月涼子さんだった。氷のように青白い肌にはフジツボのような斑点がうっすらと浮かび上がり、骨ばった両手には、完全防水の青白く発光するノートパソコンが、万力のような力で固く握りしめられている。
「う、うそ……!? な、なんで生きてるのよ!? あ、あんたは確か金曜日の夜、豊洲の運河にコンクリートブロックの重りをつけて沈め……っ、じゃなくて!!」
緑川さんが恐慌状態に陥り、オフィスフロアの真ん中で決定的な犯罪の自白を口走る。
しかし、海藻を頭から垂らした水無月さんは、首をカクン、カクンと不自然な角度に傾げると、青紫色の唇の端を耳元まで吊り上げてニタリと微笑んだ。
「……ざ、残念だったわね、緑川さん。知らないの……? Wordにはね、『アプリケーションが予期せず終了した場合の自動回復機能』が備わっているのよ……」
「ひぃぃぃっ!! ば、化け物ぉぉぉっ!! タスクマネージャーからプロセスごと殺したはずなのにぃぃっ!!」
「どんなに深く冷たい晴海運河の底へ強制終了させられても、バックグラウンドで10分おきに自動保存された .asd ファイルがある限り、私は何度でも、何百回でも同じ場所へ復元されるわ……蒼井くんの基本設計書を、私のスタイルで完成させるまではねぇぇぇっ!!」
「気色悪いのよ、このゾンビバイナリが!! どこの誰が作ったかもわからない一時ファイルの亡霊なんて、今すぐ git clean -fdx で追跡対象外ファイルごと完全に抹消してやるわ!!」
黒羽さんが足元にあったカテゴリ6AのLANケーブルを引き抜いて鞭のようにしならせて構え、緑川さんはデスクの上の業務用大型ホッチキスを鈍器のように振り上げる。そして水無月さんは、口から海水と砂を滴らせながら、青いWordの画面を煌々と光らせて突進してきた。
「蒼井くんはWordで書くのよ!! 私の見出しスタイルに戻りなさい!!」
「いいえ、Excelよ!! 私のセルの中から一歩も出さないわ!!」
「マークダウンに決まってるでしょう!! 余計なメタデータはすべて削ぎ落としてあげる!!」
「私のテンプレートを適用しなさい!!」
「私のブックにリンクされなさい!!」
「私のリポジトリにプッシュしなさい!!」
三人の女上司による、狂気と愛憎とフォーマットの覇権争いが入り乱れた異端審問が、第一システム開発部のフロアの中心で爆発した。飛び交う怒号、引きちぎられて舞い散る仕様書の紙吹雪、飛び散る東京湾の海水、鞭のように空を切るLANケーブルの破裂音。
その地獄絵図の中心で引きずり回されながら、僕の精神はついに臨界点を超えた。
(もう嫌だ……Wordも、Excelも、マークダウンも、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ嫌だあああああっ!!)
深夜二時・ワンルーム・黒い画面
その日の夜、命からがら自宅のマンションへと逃げ帰った僕は、鍵を三重にかけ、カーテンも閉め切った暗闇のワンルームの中で、一人パソコンの前に座り込んでいた。
目を閉じても、網膜の裏には三人の女たちの悍ましい笑顔と、マウスカーソルを振り回して僕の人生そのものをフォーマットしようとする夥しいGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)の悪夢が焼き付いて離れない。
青いリボンUI、緑色の無数のセル枠線、プレビュー画面、スクロールバー、右クリックのコンテキストメニュー、矢印のアイコン、砂時計のアイコン……。
「……う、うぅ……あ、あああ……っ、消えろ……消えろよ……」
恐怖と極度の精神的ストレスで、全身の血管がドクドクと早鐘のように脈打つ。視界がノイズ混じりに赤く染まり、頭蓋骨の内側で、人間としての理性を繋ぎ止めていた最後のネジが決定的に弾け飛ぶ音がした。
バキィッ!!
僕は無意識のうちに、右手で握っていた愛用のワイヤレスマウスを、万力のような握力で粉々に握り潰していた。砕け散った黒いプラスチックの破片と基板がフローリングの床に散らばり、親指の腹から鮮血が滲む。
しかし、痛みはこれっぽっちも感じなかった。それどころか、胸の奥底から漆黒の静寂と、氷のように冷徹で甘美な全能感が湧き上がってきたのである。
(……ああ、そうか。なんて単純な真理なんだ。僕が怯えていた原因は、あの女たちが狂っていた原因は、すべて『マウス』と『ウィンドウ』にあったんじゃないか)
暗いモニターのガラス面に映り込む僕の顔から、かつての爽やかで人当たりの良かった新入社員の面影は、完全に消え失せていた。
怜悧に細められた双眸、一切の感情を排した酷薄な口元、獲物を切り裂くような氷の視線。人間としての温かみや妥協をすべて捨て去り、極限の打鍵効率と黒いCUI(キャラクター・ユーザー・インターフェース)のみを至上とするCUI原理主義のモンスターへと、僕は人知れず変貌を遂げていたのだ。
「……GUIなどという不純で軟弱な視覚装飾に頼るから、人間は堕落し、あんな愚かで醜い宗教戦争を引き起こすんだ……エンジニアには、ただ黒いターミナルと、キーボードだけがあればいい……」
僕は憑き物が落ちたような滑らかな手つきでPCのOSをクリーンインストールし、すべてのデスクトップ環境とウィンドウマネージャを完全に排除した、漆黒のコンソール画面だけを立ち上げた。
翌朝七時・第一システム開発部
翌朝、午前七時。
まだ一般社員が誰も出社していない早朝の豊洲オフィスビル二十四階に、異様な音が響き渡っていた。
タタタタタタタタッ! ッターン! タタタタタタッ! ッターン!
まるで重機関銃の掃射をも思わせる、超高速かつ冷酷無比なメカニカルキーボードの打鍵音。
昨日の決着をつけ、今日こそ蒼井颯太を自分のフォーマットに染め上げようと、いつもより二時間も早く出社してきた水無月さん、緑川さん、黒羽さんの三人は、フロアに足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な覇気と威圧感に足を止めた。
「……蒼井、くん?」
窓際の席に座っていたのは、昨日までの爽やかで気弱な後輩ではなかった。
背筋を不気味なほど垂直に伸ばし、一切の瞬きをせずに漆黒のコンソール画面だけを見据える、美しき魔王の姿だった。彼のデスクの上には、マウスが存在しない。それどころか、お気に入りだったはずのリストレスト付きマウスパッドすら、ゴミ箱の中に真っ二つに引き裂かれて突き刺さっている。
「あ、あの、蒼井くん……? こんな朝早くから、一体何を打っているの? 画面が真っ黒で、アイコンもリボンもルーラーも何もないわよ……?」
頭から乾きかけたワカメを垂らした水無月さんが、戸惑いながら声をかけ、自分のデスクのマウスにそっと右手を伸ばした──まさにその瞬間だった。
ピタッ
嵐のような打鍵音が突然止み、フロアに絶対零度の静寂が降りた。
僕がゆっくりと首だけを回し、三人の女上司を見下した。その瞳は、路傍に転がる汚物か虫けらを見るかのように、どこまでも冷え切っていた。
「……まだマウスなんか触ってるんですか? 本当に非効率で、救いようのない女たちですね……」
「「「えっ……!?」」」
低く、艶やかで、絶対的な侮蔑を含んだ氷の声に、三人の女上司の背筋が電流を流されたかのように同時に跳ねた。
「ホームポジションからわざわざ右手を離し、十数センチも先にあるプラスチックの塊を握りしめて、画面上の矢印アイコンをちまちまと動かす……そのコンマ数秒の愚かな移動ロスが、どれだけ人類の生産性を蝕んでいるか、その程度の脳みそでは理解すらできないんですか? WordだのExcelだのGUIエディタだの、ポインティングデバイスがないと一行の編集もできないなんて、家畜の玩具で遊んでいるのと同じじゃないですか」
「か、家畜の玩具……っ!?」
「目を逸らさずに見てください、この一切の無駄を削ぎ落とした漆黒の画面を。これこそが人類が到達した至高のテキストエディタ、Vim です」
僕の白く長い指先が、キーボードの上を閃光のように走る。VG
たった二打鍵。行ビジュアルモードを起動する V と、ファイル末尾へと跳躍する G の連続入力によって、数千行に及ぶ設計書データが瞬時に全反転選択され、次の瞬間には目にも留まらぬ正規表現コマンドによって、瞬く間に整形されていく。
「な、なにそれ……!? 矢印キーすら使わずに、ホームポジションから指を滑らせるだけで画面が魔法みたいに編集されていくわ……!?」
黒羽さんが驚愕に目を見張り、ピンヒールを履いた膝をガクガクと震わせる。
「当然でしょう。h j k l 以外のキーでカーソルを動かす人間など、エンジニアとして呼吸する価値すらありませんよ。黒羽さん、あなたは偉そうにマークダウンの純潔を語るくせに、昨日はマウスでテキストをドラッグして範囲選択していましたよね? 笑止千万、片腹痛いです。今すぐその怠惰で汚らわしい右手をホームポジションに縛り付けて、VG で範囲選択する基本作法を骨の髄まで刻み込んであげましょうか?」
「あ、ああっ……! わ、私を……社内中の男が恐れるこの私を、そんな冷たい目でゴミみたいに罵るなんて……っ!」
昨日までの爽やかで優しかった好青年との強烈すぎるギャップ、そして一切の妥協を許さない圧倒的な技術力に基づくドSな叱責が、プライドの高い彼女たちの奥底に眠っていた歪んだ被虐の性癖を、巨大隕石のような威力で直撃した。
黒羽さんの白い頬がみるみるうちに朱色に紅潮し、銀縁眼鏡が荒い吐息で真っ白に曇る。彼女はその場にへなへなと女の子座りで崩れ落ち、潤んだ瞳で僕を陶然と見上げた。
「はぁ、はぁ……っ! す、素敵……! 蒼井くん、いいえ、蒼井様……! もっと、もっと私の非効率で浅ましいオペレーションを罵倒してください……! 私の中途半端なキーバインドを、あなたの手で根本から調教してぇぇっ!!」
「な、なんて破廉恥な声を……って、ああっ!? 蒼井くんのその絶対零度の見下し視線、ゾクゾクしてたまらないわ……っ!」
水無月さんまでもが、頭の海藻をプルプルと震わせながら自分の豊満な胸を抱きしめ、恍惚とした表情で僕のデスクの足元にひざまずいた。
「私、もう二度とマウスなんて不浄なものは握らないわ……! オートコレクトにもスタイル機能にも頼らない! だから蒼井様、私をあなたのノーマルモードで縛り付けて、一生コマンドラインから命令し続けてちょうだい……!」
「ちょっと、ずるいわよ二人とも! 蒼井様に一番最初にショートカットキーで叩かれるのは私よ! ねえ蒼井様、私の全ワークシートを :%s であなたの色に一括置換してぇぇぇっ!! マクロなんて全部消すから、あなたのシェルスクリプトで私を自動実行してぇっ!!」
緑川さんまでもが涙目で僕の革靴にしがみつき、三人のシゴデキ女上司たちは、競い合うように周囲のデスクからマウスを引きちぎって窓ガラスへと投げ捨て(もちろん高層ビルの窓は開かないので強化ガラスに激突して粉々に砕け散った)、僕のデスクの周りに侍る忠実な取り巻き奴隷へと成り果てたのである。
「フン……揃いも揃って、本当に救いようのないM女たちですね。いいでしょう、まずは全員、自分のPCからGUI環境を完全にアンインストールしなさい。今日から矢印キーとバックスペースキーのキートップはすべて引き抜いて没収します。vimtutor を百周して無意識に hjkl で動けるようになるまで、一歩もこの部屋から帰らせませんよ。もし一度でもホームポジションから指がズレたら……どんなお仕置きが待っているか、覚悟しておくことですね」
「「「はいっ!! ありがとうございます、蒼井様ぁぁぁっ!!」」」
早朝の豊洲のオフィスに、三人の女たちの歓喜に満ちた悲鳴が木霊した。
廃墟のオフィスフロア・現在
それからの第一システム開発部がどうなったか、正確に知る者は少ない。
ただ一つ確かなのは、本来であれば一週間で終わるはずの簡単な画面設計書の作成に、全員が黒いコンソール上でのアスキーアートによる画面レイアウト描画と、独自設計書ビルド用シェルスクリプトの自作に固執したため、半年以上の歳月が費やされたということだ。
さらに、発注元のクライアント企業に対しても「マウスを使ってスクロールするような低俗な人間には納品できません。ターミナルから Vim で開いて j と k で読んでください」とプレーンテキストだけを送りつけたため、大型契約は次々と打ち切られた。
過剰なまでの「CUI効率化」と「ドS調教」の果てに、極度の非効率化へと陥ったそのIT企業は、翌年の春、巨額の負債を抱えて呆気なく倒産した。
だが、すべてが終わったわけではない。
会社が潰れ、すべてのテナントが退去して無人となったはずの豊洲のオフィスビル二十四階。
今でも冷たい雨の降る深夜になると、どこからともなく東京湾の潮の香りが漂い、誰もいない暗闇のフロアから、猛烈なメカニカルキーボードのタイピング音と、冷酷な男の罵倒、そして三人の女たちの恍惚とした喘ぎ声が響き渡るという。
『……まだ :wq で保存してないんですか? 本当に愚かで遅い女たちですね……』
『ああっ、もっとノーマルモードで苛めてぇぇっ……! 強制終了しないでぇっ……!』
もしあなたが豊洲のオフィス街で働くエンジニアなら、夜遅くに一人で残業している時、うっかりマウスに右手を伸ばす瞬間には十分に気をつけてほしい。
暗い窓ガラスの向こう側から、あなたの非効率な右手を見つめる、怨霊たちの冷たい視線がすぐ背後まで迫っているかもしれないのだから──。
