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深夜タクシーと呪いの藁人形

霊峰・矢田山に巣食う禁忌の呪術と、深夜一時半の墓地で女を拾ったタクシー運転手

画像はイメージです

運賃メーターと呪いの藁人形

大和郡山市の夜は、どこかのんびりとしていて、そして金魚臭い──というのは冗談だが、城下町の狭い路地と郊外の田畑が入り混じるこの街を流すタクシードライバーの夜勤は、おおむね平和そのものだった。

俺、相馬健治そうま けんじ、三十二歳。しがない個人タクシーの運転手だ。金魚すくい選手権の送迎特需が終われば、主な客は駅前の居酒屋から帰るサラリーマンか、病院通いの常連のばあちゃんくらいなもの。今日も今日とて、無線が鳴るのをぼんやりと待ちながら、郡山城跡の堀端を時速三十キロで流していた。

ダッシュボードのカーナビが、ピロリンと軽快な電子音を立てる。
スマホの配車アプリと連動した呼び出しだ。

「ええと……迎車地、矢田山山麓の八島町、墓地前……? うわあ、出たよ。深夜一時半に墓地前って、ホラー映画の導入部かよ」

思わず独り言が漏れる。だが、選り好みできるほど今月の売上は潤沢ではない。ハンドルを左に切り、矢田丘陵へ向かって坂道を登っていった。
街灯がまばらになり、民家の明かりが消え、深い竹林がヘッドライトの光を吸い込んでいく。やがて現れた鬱蒼とした杉木立の脇、ぽつんと灯る最後の街灯の下に、ひとつの人影が立っていた。

ハザードを焚いて停車する。
街灯の下にいたのは、お化けでも泥酔したオッサンでもなかった。

漆黒の、絹のような長い黒髪。透き通るような白い肌に、紅を差したような唇。着ているのは、なぜか平安時代か鎌倉時代を思わせるような、豪奢な黒と朱色の巫女装束風の着物。そして手には、明らかに藁で作られた、五寸釘の突き刺さった人形がぶら下がっていた。

『……やべえ。コスプレイヤーのヤンデレか? それともガチのやつ?』

逃げようかという本能的な危機感が背筋を走ったが、自動ドアのレバーは指の反射によってすでに引かれていた。プシューという空気音とともに後部座席のドアが開く。

「……乗られますか?」

恐る恐る尋ねると、その美少女は俺の顔をまじまじと見つめた。
大きな瞳が驚きに見開かれ、次の瞬間、ぽっと林檎のように頬が赤らむ。

「あ……」
「あの、お客様?」
「……乗る! 乗せてたもれ……いや、乗せてくださいまし!」

ドタバタと慌てて乗り込んできた彼女からは、線香の煙と、ほんのり甘い白檀の香りがした。

「どちらまで行かれますか」
「近鉄郡山駅の……コンビニのところまで! あ、でも、あの……!」
「はい?」

ルームミラー越しに目が合う。彼女は藁人形を膝の上でぎゅっと抱きしめ、もじもじと指を絡ませながら、上目遣いにこちらを見ていた。

「運転手さん、お名前は……?」
「え? あ、名札にあります通り、相馬ですけど……」
「そうま、さま……。そうまさま……!」

名札にはフルネームで『相馬健治』と書いてあるが、俺が口にした苗字のほうを、なぜか下の名前であるかのように愛おしそうに噛み締められた。
これが、俺の平穏だったドライバー生活が木っ端微塵に吹き飛ぶ、すべての始まりだった。

その翌週から、怪奇現象が日常になった。

火曜日の深夜一時、同じ矢田山麓で迎車。乗ってきたのは彼女──名を「朱音あかね」といった。
木曜日の深夜一時、同じく矢田山麓で迎車。彼女は満面の笑みで乗り込んできて、「今日も会えましたね、そうまさま!」と鈴を転がすような声で言った。
土曜日の深夜一時、迎車。もはや迎車ボタンを押す前から俺の車の前で待機していた。

そして今夜。

「あの、朱音さん。いつもご指名ありがとうございますけどね、こんな山奥から毎晩のようにコンビニに行くだけって、タクシー代も馬鹿にならないでしょう?」

ルームミラー越しに声をかけると、後部座席で背筋をピンと伸ばした朱音は、嬉しそうに身を乗り出してきた。

「いいのです! わらわ──じゃなくて、私、そうまさまの運転するこの鉄の牛くるまに乗っている時間が、一日のうちでいちばん幸せなのですから!」
「鉄の牛って……。昭和初期の人でも言いませんよ」
「それに! ほら、見てくださいまし、そうまさま! 今日はお揃いのものを作ってまいりました!」

朱音は自分の巾着バッグにぶら下げた小さな人形を指さすと、もうひとつ、誇らしげに取り出してみせた。麻紐で編まれた精巧な人形だ。
朱音のものとお揃いの意匠だが、こちらには胸元に赤いフェルトペンで『健治』と書かれており、頭部には俺の車のナンバープレートの数字がしっかりと刺繍されている。

「……えーと、これは?」
「身代わり人形ひとかたです! そうまさまの交通安全と無病息災、そして私との永遠の良縁を祈念して、三日三晩、呪しゅを込め続けました! これでそうまさまに降りかかるあらゆる災厄は、身代わりにこの人形が引き受け、四肢がねじ切れるように爆散いたします!」
「重い! 込められた愛も呪いも重すぎる! ていうか四肢が爆散するの怖すぎるから!」

「愛ゆえです! 愛の力で、私の法力はいつもの三倍に跳ね上がっておりますから、大型トラックが突っ込んできても、トラックのほうが異次元に消し飛びます!」
「絶対事故りたくないなそれ……」

呆れつつも、邪気のない朱音の笑顔を見ていると、どうにも毒気を抜かれてしまう。
美人で、礼儀正しくて、ちょっと……いや、かなりズレているが、悪い子ではないのだ。
しかし、そんな奇妙で微笑ましい(?)タクシーラブコメは、ある夜、唐突に恐るべき方向へとハンドルを切ることになった。

矢田丘陵に渦巻く漆黒のカルマ

深夜の待機中、スマホが激しく鳴り響いた。
配車アプリではない。直通の電話番号──常連客として教えてしまった、朱音の携帯からだった。
画面をタップした瞬間、切迫した叫び声が鼓膜を打つ。

『そうまさま! そうまさま、助けてくださいまし……!』
「朱音さん!? どうしたんですか、そんな切羽詰まった声出して!」
『もう……もう耐えられませぬ! 良心の呵責で、私の胸が張り裂けそうなのでございます! このままでは、このままでは奈良が……いえ、日本が滅びてしまいます!』

ただ事ではない。
俺はすぐさまエンジンを始動させ、ギアをドライブに入れた。

「今どこですか!?」
『いつもの山奥……私たちの本拠地でございます! 結界が解いてありますので、そのまま登ってきてくださいまし!』

車を急発進させ、深夜の県道を駆け上がる。矢田山の奥深く、未舗装の悪路を進んでいくと、突如として深い霧が立ち込めてきた。
ヘッドライトの光を乱反射する白濁の靄の向こうに、古びた朱塗りの鳥居が現れる。
普段はこんな鳥居も、その先へと続く道も、存在すらしていなかったはずだ。

「結界って……マジで呪術的なやつだったのかよ……!」

鳥居をくぐり抜けた先には、鬱蒼とした森に囲まれた巨大な日本屋敷がそびえ立っていた。篝火が焚かれ、異様な雰囲気を醸し出している。

車を止めると、屋敷の物陰から朱音が飛び出してきた。

「そうまさま!」
「朱音さん! 怪我はないですか!? 日本が滅びるって、一体何が起きてるんです!?」

駆け寄ってきた朱音の手を咄嗟に握ると、彼女は「ひゃぅっ!」と可愛らしい悲鳴を上げて顔を真っ赤にした。だが、すぐに引き締まった表情になり、懐から一枚の紙を取り出して俺に突きつけた。

「これを見てくださいまし……!」
「これは……?」

月明かりの下、渡された紙に目を落とす。

【差押予告通知書】

宛先:狗賓山ぐひんざん呪術衆 代表 夜叉丸

案件:市県民税・固定資産税 度重なる督促にもかかわらず納付が確認できません。本書面到達後十四日以内に全額の納付がない場合、所有財産の差押えを執行いたします。

「……え?」
「父上が……我が一族が、滞納しているのです!」

朱音は悲痛な面持ちで叫んだ。

「我ら狗賓山呪術衆は、平安の昔よりこの矢田の山奥にて闇の力を研鑽し、現世の裏で暗躍してきた邪悪なる呪術師の一族……! 人界の法など超越していると豪語し、市役所からの通知をことごとく式神に食わせて無視し続けてまいりました!」
「無視したのかよ……」
「しかし、ついに大和郡山市役所が本気を出しました! 『払わぬなら山ごと差し押さえる』と、最終通告が届いてしまったのです!」
「そりゃそうだろ! 市役所の税務課を舐めたらダメだって!」

「そして、それに逆上した父上が……!」
朱音は屋敷の奥を指差した。
奥の広間からは、禍々しい紫色の光と、重低音の唸り声が響いてきている。

「『山を差し押さえられるくらいなら、古代禁忌の邪悪なる呪術で奈良県全土を我が支配下に置き、大和郡山市役所を焼き払って納税義務そのものを歴史から消滅させてやる!』と……!」

「理由がセコい上にスケールがデカすぎるだろ!!」

思わず叫んでしまった。
滞納した住民税を踏み倒すために奈良県を征服しようとする呪術師軍団って何なんだ。

「私は止めようといたしました! 国民の三大義務を侮るなと! せめて窓口に行って分納の相談をしようと! ですが父上は聞く耳を持たず、今まさに儀式を始めてしまったのです……! そうまさま、お願いです、父上を止めてくださいまし!」
「俺!? 俺ただの個人タクシードライバーだよ!? 邪悪な呪術師の親玉を止める戦闘力なんてあるわけないだろ!」

「大丈夫です!」
朱音は俺の両手をぎゅっと握りしめ、力強く頷いた。

「私の愛の呪術があれば、そうまさまは無敵です! それに……父上にとって最大の弱点は、この私なのです!」
「えっ、そうなの?」
「はい! 筋金入りの親バカですから!」

自信満々に胸を張る朱音に引っ張られ、俺は紫の怪光が漏れる大広間へと突入させられる羽目になった。

呪縛の儀式と親バカの怒号

広間の中は、まさにこの世の地獄のような様相を呈していた。

床一面に血のような朱砂で描かれた巨大な魔法陣──いや、呪詛の曼荼羅。
その周囲を、髑髏の仮面を被った黒装束の男たちが十数人、奇妙な踊りを踊りながら取り囲んでいる。

オオオオオオオ……オン・バサラ・ウン・ソワカ……グルルルル……

耳元を削るような怪異の音が大気を震わせていた。
そして、曼荼羅の中心、一段高くなった祭壇の上に立っていたのは、身の丈二メートルはあろうかという巨漢だった。ボサボサの白髪に、額からは鬼のような二本の角が生えている。

「カハハハハ! 湧き上がれ、矢田山の怨嗟の地脈よ! 大和郡山市役所税務課の職員どもめ、我が呪詛の業火に焼かれ、固定資産税の帳簿諸共灰燼に帰すがいいわーーッ!」

「お父様ーーッ!! いい加減にしなさいませーーッ!!」

朱音の怒声が広間に響き渡った。
ぴたり、と黒装束たちの踊りが止まる。
祭壇の上の巨漢──狗賓山呪術衆の族長、夜叉丸がビクッと肩を跳ね上がらせ、振り返った。

「あ、朱音ぇ!? な、なぜここに……部屋でおとなしくしていなさいと言ったはずでは……」
「おとなしくしていられるわけがありません! このような浅ましい理由で禁忌の術を使うなど、狗賓山の恥さらしです! 今すぐ儀式を中止して、明日朝一番で市役所に納税の相談に行ってくださいまし!」
「な、何を言うか! 我らは闇に生きる呪術師ぞ!? コンビニのレジに並んで払込用紙を出すなど、末代までの恥辱! それに、延滞金を含めたら三百二十万円だぞ!? そんな大金、どこにあるというのだ!」

「ちゃんとお仕事(呪詛返しや厄払い)の依頼料をプールしておかないお父様が悪いのではありませんか! 全部パチンコと競馬に突っ込むからでしょう!」
「う、うるさい! あれは勝負勘を研ぎ澄ますための修行だ!」

生々しすぎる内情の暴露に、俺は思わず遠い目になった。
邪悪な呪術師軍団の族長、ただのダメ親父じゃないか。

その時、夜叉丸の鋭い眼光が、朱音の背後に立つ俺を捉えた。

「……ぬ!? 朱音、そこの薄汚い軽薄そうな現世の男は何者だ!? 貴様、神聖なる儀式の場に男を引き連れてくるとは何事か!」
「薄汚くありません! 私の最愛の殿方、そうまさまです!」

「な……ななな、なにいィィィィッ!?」
夜叉丸の顔が怒りで真っ赤になり、額の角が怒髪天を衝く勢いで逆立つ。

「さい、あいの、とのがたぁ!? わ、儂の可愛い朱音に……いつの間にそんな蟲むしがついたのだぁぁッ! どこの馬の骨だ貴様ァ! 職業は何だ! 年収はいくらだ! 朱音を養える甲斐性はあるのかァァッ!」

「急に現実的な父親の尋問やめてもらえます!?」
思わずツッコミを入れた俺に、夜叉丸は血走った目を剥いて呪具の錫杖を構えた。

「許さん……許さんぞ貴様ァ! 我が愛娘を誑かした罪、万死に値する! 儀式の生贄第一号にしてくれるわ! 死ねぃッ!」

夜叉丸が錫杖を振り下ろすと、曼荼羅からどす黒い霧が立ち上り、巨大な百足むかでの形をとって俺へと猛スピードで突進してきた。

ギチギチギチギチ……ッ!!

百匹の蟲が這いずり回るような不気味な怪音が空間を満たす。
死ぬ、と本能が叫んだ瞬間、俺の前に朱音が割って入った。

「そうまさまに手出しはさせませんッ!!」

朱音の瞳が紅く輝き、全身から凄まじい桃色のオーラが爆発的に噴き上がった。

「急急如律令・愛羅武勇あいらぶゆう!!」

意味不明な呪文とともに朱音が印を結ぶと、空間が激しく歪み、夜叉丸の放った黒い百足が一瞬でハート型の閃光によって消滅した。
余波の突風だけで、周囲の黒装束たちが「ぐわあああ!」と吹き飛んでいく。

「な……何という法力だ……!? 朱音、お前、いつの間にそこまでの力を……!?」
夜叉丸が愕然として後ずさりする。

「言ったはずです、お父様! 愛の力で私の呪力は普段の三倍……いえ、そうまさまが後ろにいてくださる今なら十倍ですわ!」
「じゅ、十倍ぇぇ!? そんなの儂でも勝てるわけないだろ!!」

親バカ云々以前に、普通に娘のほうが圧倒的に強かった。

走れ個人タクシー、大和郡山を救うために

しかし、事態は思わぬ方向へ転がった。
朱音の放った莫大な愛のエネルギーを吸収したことで、床の曼荼羅が暴走を始めたのだ。

ゴオオオオオオオオッ……!!

床の亀裂から、赤黒いマグマのような瘴気が噴き出す。

「し、しまっ……!? 術の制御が効かん!」
夜叉丸が頭を抱えて叫んだ。
「朱音の純粋すぎる愛の波動が、邪悪なる怨嗟の結界に過剰干渉を起こしたのだ! このままでは、怨念の泥流が地脈を伝って山を駆け下り、市役所はおろか大和郡山市街を飲み込んでしまうぞ!」

「なんですって!?」
朱音が青ざめる。
「お父様、術を逆回転させて解除することはできないのですか!?」
「無理だ! 一度暴走した呪詛の濁流を止めるには、地脈の出口である『郡山城天守台の石垣』に、この核となる鎮魂の神鏡を直接打ち込むしかない! だがここから城跡まで、直線距離でも十キロ以上ある! 泥流が街に達するまで、あと十五分もないぞ!」

見れば、床から溢れ出た赤黒い泥のような怪異が、大蛇のようにうねりながら屋敷の外へと這い出していくのが見えた。あれが市街地に流れ込めば、大和郡山は呪いの泥沼に沈む。

「じゅうごふん……! そんな、天狗の飛翔術を使っても間に合いませぬ……!」
絶望に暮れる朱音。
だが、その時、俺の中でカチリとスイッチが入った。

「おい、オッサン」
「お、オッサンだと!? 無礼な……」
「その神鏡ってのを出せ」

俺は車のキーを指先で回しながら、夜叉丸を見据えた。

「矢田山から郡山城跡まで、深夜の道なら普段で二十分。だが、抜け道を使って信号のタイミングを完璧に読めば──十分で着く」
「な、何だと……? 貴様、正気か!? あの曲がりくねった山道を、その鉄の牛で……!?」

「鉄の牛じゃない、トヨタ・クラウンだ。大和郡山の道を走り続けて十年、個人タクシーの腕、舐めるなよ」

俺は朱音の手を取った。
「乗れ、朱音さん! 仕事だ!」
「は、はいっ、そうまさま……!」

朱音が目を輝かせて後部座席に飛び乗る。
「ええい、儂も乗るぞ! 神鏡の結界を維持せねばならんからな!」
夜叉丸も慌てて助手席に巨体をねじ込んできた。サスペンションが悲鳴を上げる。

「メーター倒すからな! 深夜割増料金きっちり請求するぞ!」
「金なら……ないと言っておろうがァァッ!」
「ツケにしてやるよ! しっかり働いて返せ!」

アクセルを床まで踏み抜いた。
タイヤが激しく空転し、砂利を巻き上げながら、白塗りの個人タクシーは夜の闇へとロケットのように飛び出した。

「ひ、ひぎゃああああっ!? 速い! 速すぎるぞこの牛ィィッ!!」
助手席で夜叉丸がアシストグリップを両手で握りしめ、白目を剥いて絶叫している。

「お父様、みっともないですわ! そうまさまの華麗なコーナリングの邪魔をしないでくださいまし!」
後部座席の朱音は、遠心力で左右に振られながらもうっとりとした表情で俺の後頭部を見つめていた。

「朱音さん、前方に呪いの泥流が見えてきた! あれを飛び越えるぞ!」
山道を下る先、道路一面を赤黒い怨念の濁流が塞いでいた。ガードレールを押し潰し、木々を薙ぎ倒しながら市街地へと向かっている。

「任せてくださいまし! そうまさまへの愛よ、我が車輪を包む翼となれ!」

朱音が印を結び、後部座席から窓の外へ向けて術を放つ。
タクシーの車体全体がピンク色の眩い光に包まれた。

「急急如律令・超安全運転飛翔術スーパーブースト!!」

ドンッ、という凄まじい衝撃とともに、クラウンの車体が浮き上がった。
時速八十キロのまま、タクシーは怨念の濁流を飛び越え、宙を舞う。

「飛んだァァァァッ!? 車が飛んどるぅぅぅッ!!」
夜叉丸の悲鳴が車内に木霊する。

着地と同時に激しいスキール音が響き、俺は巧みなカウンターステアでスピンを防ぎ、再び加速体勢に入った。

山を抜けた。視界が開け、大和郡山の街並みが見えてくる。
だが、油断はできない。背後からは、空を飛ぶようにして追ってきた巨大な怨念の塊──黒い巨大な鬼の形をした煙が、咆哮を上げながら追いすがってきていた。

ウォオオオオオオオオオッ!!

「追いつかれるぞ! 何か防壁を張れ朱音!」
助手席の夜叉丸が悲鳴混じりに叫ぶ。
「ダメです、今の速度で展開したら結界を置き去りにするだけです!」
「なら迎え撃つしかねえ!」
俺は片手でハンドルを押さえ、ダッシュボードのオーディオボタンを叩き込んだ。
眠気覚ましにいつも聴いている、津軽三味線の爆音イントロが車内に鳴り響く。

「よし、オッサン! 助手席の窓全開にして、その神鏡を後ろに向けて構えろ!」
「な、何をさせる気だ!?」
「三味線のリズムに合わせて呪文を唱えろ! グルーヴ感で法力を増幅させるんだよ!」
「適当なことを言うなァァァッ! だがやるしかない……オン・アビラウンケン・ソワカァァッ!!」

夜叉丸が窓から身を乗り出し、神鏡を突き出す。
津軽三味線の強烈なビートと、夜叉丸の必死の読経、そして朱音の後部座席からの「そうまさま大好きー!」という黄色い声援が奇跡の融合を果たした。

神鏡から極太の光線が放たれ、追尾してきていた巨大な鬼の眉間を直撃する。
鬼はギャオオオンと情けない悲鳴を上げて四散した。

「抜けたぞ……! 郡山城跡だ!」

俺はハンドルを激しく切り、城跡の公園へと続く石畳の登り坂へと突入した。

郡山城天守台の決戦(?)

深夜の郡山城跡。
普段は静まり返っている天守台の石垣のふもとに、滑り込むようにタクシーを急停止させた。
タイヤから白いゴムの焼ける煙が立ち上る。

「着いたぞ! 所要時間九分四十五秒! メーターは五千四百円だ!」
「げ、ゲロが出そうだ……」
助手席から転がり出た夜叉丸が、石畳に手をついてえずいている。

「お父様、しっかりなさいませ! 来ます!」

朱音の叫ぶ声。
見上げれば、四散したはずの怨念の残滓が、黒雲となって空を覆い尽くし、城跡の天守台めがけて急降下してきていた。
天守台の石垣には、大和郡山の守り神たる地脈の要石がある。あそこに直撃すれば、市街地どころか奈良盆地全体が呪詛の毒気に汚染される。

「オッサン、鏡だ! 要石に打ち込め!」
「う、うむッ! ……あ、あれ? な、ない……!?」
夜叉丸が慌てて自分の懐を探る。

「鏡がないぞ!? どこへやった!?」
「はぁぁぁぁッ!? あんたさっき窓から身を乗り出して撃ってたろ!」
「あ、あの時に……手汗で滑って落としたかもしれん……」

「この大馬鹿親父ーーーーッ!!」
朱音が般若のような形相で父親の胸ぐらを掴んで揺さぶった。

黒雲はすぐそこまで迫っている。もはや猶予はない。
その時、運転席の窓越しに、ダッシュボードの上に転がっていたものが視界に入った。

朱音がくれた、あの麻紐の人形だ。

俺は車内に手を伸ばして人形をひっつかむと、朱音に突き出した。
「朱音さん! これだ!」
「えっ……私の身代わり人形?」
「これ、俺の身代わりとしてあらゆる災厄を引き受けて四肢が爆散する呪いが込められてるんだろ!? 朱音さんの十倍の愛の力があれば、この街全体の身代わりにだってできるはずだ!」
「は、はい! そうですが……!」

「だったら、この街全体の身代わりになってもらう! 朱音さんの愛の力で、この人形を要石とリンクさせろ!」

朱音は目を見張り、そして力強く頷いた。
「わかりました! そうまさまが私を信じてくださるなら……!」

朱音は人形を受け取って両手で包み込み、胸元に抱きしめた。
瞳を閉じ、祈るように唇を動かす。

「天にまします神々、地に眠る八百万の精霊よ……そして何より、私の心を満たすそうまさまへの無限の愛よ! この人形に、大和郡山のすべての厄災を背負う力を与えたまえ……!」

人形が、まるで太陽のように眩しい純白の光を放ち始めた。

「そうまさま、今です! 天守台の中心へ!」
「よっしゃあぁぁぁッ!!」

俺は朱音から人形を受け取るや否や、全速力で石段を駆け上がった。
迫り来る巨大な黒雲。冷たい死の突風が吹き荒れ、顔の皮膚が引き裂かれそうになる。

滅びよ……すべて灰燼に帰すがいい……!!

亡霊たちの怨嗟の声が頭蓋骨に響く。
だが、俺は負けじと叫び返した。

「税金から逃げて街を滅ぼそうとするんじゃねえ! 大和郡山市を舐めるなァァァッ!!」

天守台の頂点、古い要石の窪みに向けて、俺は朱音の愛が詰まった人形を全力で叩き込んだ。

瞬間。

カアァァァッ、と視界が真っ白に染まった。

ドォォォォォォォンッ……!!

凄まじい衝撃波が広がり、黒雲の巨人を下から突き抜ける。
怨念の雲は、ピンクと白の光の奔流によって瞬く間に浄化され、夜空に無数の光の粒子となって散っていった。
まるで、真夜中に打ち上げられた巨大な花火のように。

静寂が戻ってきた。
空には、何事もなかったかのように美しい星空が広がっていた。

天守台の上で、俺は仰向けに大の字になって倒れ込み、肩で息をした。

「……はは。助かった……のか?」

パタパタと足音が近づいてきて、覗き込むように朱音の顔が現れた。
その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

「そうまさま……!」
「朱音さん……終わったよ。街は無事だ」

「そうまさまぁぁぁっ!」

朱音は俺の胸の中に飛び込んできた。
柔らかい感触と、白檀のいい匂いが鼻腔をくすぐる。

「かっこよかったです……! もう、世界でいちばんかっこよかったです、そうまさま……! 私、一生そうまさまについていきます! タクシーの助手席を私の定位置にしてくださいまし!」
「ちょ、重い重い! あとお客さんは後部座席に乗るもんだから!」

「いいえ離しません! もう絶対に離れませんことよ!」

ぎゅうぎゅうと抱きしめられて窒息しそうになっていると、石段の下から、ボロボロになった夜叉丸が青い顔をして登ってきた。

「ぐ、ぐぬぬ……朱音、儂という父親がいながら、男の胸に飛び込むなど……! だが……街を救ったこと、そして朱音を護ったことだけは、認めてやらんこともない……」

悔しそうに拳を握りしめる夜叉丸に、俺は胸元の朱音を引き剥がしながら、冷徹な現実を突きつけた。

「あ、夜叉丸さん」
「な、何だ……?」
「タクシー代、深夜割増と悪路・山道特別走行手当、あと車体の除染クリーニング代込みで、締めて三万八千円になります」
「高ッ!?」

「それと、明日朝九時に、市役所の税務課まで俺のタクシーで送迎しますから。逃げないように迎えに行きますんで、ちゃんと分納の誓約書書いてきてくださいね」

「ヒィィィッ! お、鬼! 悪魔! 呪術師より邪悪だ貴様ァァッ!」

夜叉丸の絶叫が、夜の郡山城跡に虚しく木霊した。

エピローグ:大和郡山の平和と、さらなる受難

【大和郡山市役所 広報課】

昨夜未明、市内上空において局地的な発光現象が観測されましたが、気象庁によると大気中の静電気による自然現象とのことです。市民生活への影響はございません。

また、本日より税務課窓口にて、一部滞納者による計画的納付の相談が開始されました。

青空が広がる翌週の昼下がり。
近鉄郡山駅のタクシー乗り場で待機していると、トントン、と助手席の窓がノックされた。

窓を下ろすと、そこにはいつもの巫女装束……ではなく、清楚なブレザー制服風の私服に身を包んだ朱音が立っていた。手には手作りの重箱を持っている。

「そうまさま! お昼休憩ですわよね? お弁当を作ってまいりました!」
「あ、朱音さん。……なんか、普通の服着てると本当に普通の可愛い女の子に見えるな」
「ほ、本当ですか!? そうまさまに可愛いと言っていただけるなんて……ああ、今朝の三時間のお祈りが通じましたわ……!」

ぽうっと頬を染める朱音。
「あ、そういえば夜叉丸さんは? ちゃんと市役所行った?」
「はい! 税務課の窓口で職員の方とみっちり面談いたしまして、月々五万円ずつの分納で合意いたしました。今はお父様、山奥の修行場で『開運!絶対に当たる厄除け護符』の内職に励んでおります。一族総出で内職ですわ」
「急に所帯染みたな邪悪な呪術師軍団……」

「これもすべて、そうまさまのおかげです!」
朱音は嬉しそうに助手席のドアを開け、当然のような顔で乗り込んできた。

「はい、そうまさま! あーんでございます!」
「ちょ、人目があるから! 恥ずかしいから!」

『おい、そこの不届き者ォォォッ!!』

突然、ダッシュボードのカーナビの液晶画面が激しく明滅し、ノイズ交じりに夜叉丸の顔が浮かび上がった。

「遠隔思念波通信・父の怒りモード起動!!」

『朱音に破廉恥な真似をさせているのは貴様か相馬ァァッ! 護符貼りの内職をしながらでも、儂の千里眼は貴様らを監視しておるのだぞ! 朱音に指一本でも触れてみろ、タクシーの全タイヤをパンクさせる呪いをかけてやるからなァァッ!』

「うわ出たよ! カーナビに呪いかけんな! 修理代請求するぞ!」
「お父様、無粋ですわ! 消滅なさいませ!」

朱音がビシッと指を突きつけると、カーナビの画面がバチンッと火花を散らしてブラックアウトした。

「ああっ!? 俺のナビが!!」
「大丈夫ですそうまさま! 私がそうまさまの永久ナビゲーターとして、一生お隣で愛の道案内をいたしますから!」

「そういう問題じゃないんだよ朱音さーん!!」

秋晴れの大和郡山市に、俺の悲鳴と、朱音の鈴を転がすような笑い声が響き渡った。
どうやら俺のタクシーメーターは、当分の間、とんでもない愛と呪いの重力場から抜け出せそうにない。

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