綾瀬川の笑う影
【緊急防犯警報】草加市内において、白塗りに裂けた紅い唇の道化師(ピエロ)による連続凶悪傷害・殺人事件が連続発生しております。夜間の単独歩行は厳に慎み、戸締まりを徹底してください。不審な人物を目撃した際は、決して接触せず直ちに110番通報を──。
深夜二時、埼玉県草加市を流れる綾瀬川の濁った水面が、街灯の鈍い光を浴びて油膜のように揺れていた。
川沿いの遊歩道には、昼間の穏やかな面影は微塵もない。湿り気を含んだ川風が吹き抜けるたび、堤防の草むらがざわざわと身を擦り合わせ、まるで何者かが闇の底で忍び笑いを漏らしているかのような錯覚を抱かせる。
ここ数ヶ月、草加市は底知れぬ狂気と恐怖のるつぼに叩き落とされていた。
神出鬼没の無差別殺人鬼。
顔面を純白のドーランで塗りたくり、耳元まで裂けた真っ赤な口元を狂気じみた笑みで歪めた道化師──通称『草加の殺人ピエロ』。
動機は一切不明。怨恨でも金目当てでもない。ただひたすらに、理由なき殺戮の衝動に駆られて獲物をいたぶり、屠る。
これまでに餌食となった被害者は既に九人。
いずれも夜道や閑静な住宅街で突然襲われ、鋭利な刃物で無残な骸へと変えられていた。
目撃情報は多数寄せられているのだ。しかし、警察はいまだその尻尾すら掴めていなかった。
犯人は重厚なピエロの衣装を纏っているにもかかわらず、一流のパルクール奏者をも凌駕する超人的な身体能力を誇っていた。
通報を受けてパトカーが包囲網を敷いた瞬間、ビルの屋根から屋根へと身軽に跳躍し、高さ三メートルのブロック塀を軽々と蹴り上がり、闇夜の中へと煙のように掻き消えてしまう。
そして、路地裏に身を潜めて手早くメイクを拭い落とせば、深夜のコンビニや駅前を行き交う市民の雑踏へと溶け込み、完全に追跡を断ってしまうのだった。
誰もがその正体を知らない。
誰もがその素顔を知らない。
だが、道化師の仮面の下に隠された真の貌──それは、見る者すべてが息を呑むほどの、息を呑むような絶世の美貌であった。
狂気の足音と十人目の衝動
カツン……カツン……ギィ……
アスファルトを踏みしめるブーツの音が、深夜の住宅街に不穏なリズムを刻んでいた。
水玉模様のサスペンダーズボンに、フリルで飾られた襟元。そして手には、月光を反射して青白く光る一本の重厚な大型斧。
ピエロは自らの紅い唇を指先でなぞりながら、愉悦に震える吐息を漏らしていた。
『ふふ……ふふふふ……あはっ』
頭の中で、鈴の音が激しく鳴り響いている。
衝動。圧倒的な破壊と殺戮の衝動。
九人の命を奪い去ったが、まだ足りない。キリのいい十人目。記念すべき十人目の獲物を、この手で永遠の眠りにつかせてやりたい。
ピエロの爛々と輝く瞳が、路地奥に佇む築四十年の木造二階建てアパート──『コーポ新栄』を捉えた。
その二階の一番奥、203号室。
カーテンの隙間から、ぼんやりと豆電球の明かりが漏れていた。
『見ぃつけた……。十人目の、かわいそうな仔羊ちゃん……』
ピエロは忍び足で鉄骨階段を上がった。
足音は一切立てない。重力を無視するかのようなステップで203号室の前へと滑り込む。
表札には、マジックペンで走り書きされた『渡会』の二文字。
ピエロは両手で斧の柄を握り直した。
記念すべき十人目なのだ。派手に、劇的に、恐怖の絶頂を味あわせてから葬り去らなければ興が削がれる。
フシューッ……フシューッ……
荒い呼吸を整え、筋骨隆々のプロレスラー並の膂力を細い腕に凝縮させる。
全身のバネをしならせ、渾身の力で斧を振りかざした。
ズガァァァァァンッ!!
爆音とともに、薄い合板の玄関ドアが真っ二つに裂け飛んだ。
蝶番がへし折れ、鍵のシリンダーが無惨に吹き飛ぶ。
「ハハハハハッ! こんばんはぁ! 死の時間だよぉぉぉっ!!」
甲高い哄笑を響かせながら、ピエロは蹴破った玄関ドアを踏み越え、短い廊下を駆け抜けて奥の居室へと飛び込んだ。
惨劇の予定調和の崩壊
「……えっ?」
歓喜の雄叫びを上げて突入したピエロは、振り上げた斧をピタリと止めたまま、その場で硬直した。
室内に立ち込める、饐えたような異様な空気。
足を踏み入れた瞬間、足裏に伝わるグニャリとした不快な感触。見下ろせば、半分干からびたコンビニパスタの残骸と、脱ぎ捨てられた靴下が散乱していた。
そこは──地獄だった。
血の海という意味の地獄ではない。物理的・衛生的な意味での、完全なるゴミ屋敷だった。
玄関と廊下の先に隔てられた、六畳の居室。
床を埋め尽くしているのは、何重にも積み重なったカップ麺の空き容器、飲みかけのペットボトルの山、割り箸の残骸、そして何よりも狂気じみた量の印刷紙。
壁一面に付箋が貼り散らかされ、床には英語や数式がびっしりと印字された論文のコピーが雪崩のように堆積している。
部屋の隅に追いやられた万年床の上では、ボサボサの黒髪に銀縁メガネをかけた痩せ型の青年が、死人のように爆睡していた。
ピエロがドアを斧で粉砕したというのに、青年は起きる気配すら見せない。
耳には耳栓、目元には蒸気でホットアイマスクが引っかかり、口から涎を垂らしながら低いいびきをかいている。
グゥゥ……スピー……
「な、なにこれ……?」
ピエロの口から、素の声が漏れた。
白塗りの下で、整った眉が激しく引きつる。
「汚っ……え、汚すぎない……!? 人間が住んでいい空間じゃないでしょ……!」
ピエロは思わず鼻をつまんだ。
シンクにはカビの生えたマグカップが積み上がり、机にはエナジードリンクの空き缶が要塞を築いている。
青年の枕元には、『修士論文最終稿(修正版3)(本当の最終)』と書かれた分厚いファイルが転がっていた。
『……こいつ、何日徹夜したのよ』
あまりの疲弊ぶりに、思わず同情すら湧いてくる。
だが、自分は快楽殺人鬼だ。早くこの斧を振り下ろし、十人目を刻まなければならない。
ピエロは再び斧を持ち上げ、青年の首筋へ刃を向けた。
しかし──。
「い、いやだ……」
刃先が青年の喉元に触れそうになった瞬間、ピエロの手が止まった。
「いやよ! 絶対に嫌! 記念すべき十人目よ!? あたしの華麗なる殺戮ロードの金字塔となるメモリアル・キルなのよ!? なんでこんな、酸化した油と生ゴミの悪臭が漂うド底辺のゴミ部屋で血を流さなきゃいけないのよ! 飛び散った返り血がゴミに吸われて全然映えないじゃないの!!」
殺人鬼としてのプライドが、この不潔極まりない空間での殺行を断固として拒絶していた。
彼女は異常殺人者であったが、同時に極めて潔癖症で几帳面な性格の持ち主だったのだ。
「ああもうっ……見てられない! イライラする! 視界に入るもの全部片付けたい!!」
ピエロは斧を壁に立てかけると、苛立たしげに両袖を捲り上げた。
「待ってなさいよ、アンタ。綺麗な部屋にしてから、最高に気持ちよく殺してあげるんだからね……!」
真夜中の大掃除狂詩曲
そこから、草加の街を震撼させている殺人鬼による、前代未聞の死闘が幕を開けた。
キッチンの引き出しから草加市指定の燃えるゴミ袋を束ごと引っ張り出し、パルクール仕込みのフットワークで部屋中を跳び回る。
ペットボトルの残りを捨て、ラベルを剥がし、キャップを分別して踏み潰す。
バキッ! ペキッ!
「よし、次はプラスチック容器!」
カビた弁当殻を放り込み、続いて床の論文の山へ取り掛かる。
「これ……捨てるわけにはいかないわよね。論文でしょ? あたしも院生だから分かるわよ、これ捨てたら発狂どころの騒ぎじゃないわ……」
殺人鬼の癖に妙な共感能力が発揮された。
用紙に印字されたページ番号と著者名をスキャンし、年代順・テーマ順に並べ替え、クリップで留めて机の上に整然と積み上げていく。
「なになに……『深層学習を用いた音響信号処理におけるノイズリダクションの最適化』? へえ、面白いアプローチじゃない……って、何感心してんのよあたしは!」
一人ノリツッコミを入れながら、ボロボロの箒と塵取りで床の埃を掃き集める。
雑巾を水で濡らして固く絞り、床を猛烈に水拭き。窓を全開にして換気し、シンクの食器を泡立ててピカピカに磨き上げ、仕上げに部屋全体へ消臭スプレーを噴射した。
シュッシュッ──
作業開始から二時間半。
東の空が白み始め、草加の街が薄青い朝焼けに包まれる頃。
かつてゴミ屋敷だった203号室は、まるでモデルルームのように生まれ変わっていた。
床にはチリひとつ落ちておらず、書類は美しく整頓され、柑橘系洗剤の爽やかな香りが漂っている。
「ふぅ……! 終わったぁぁぁ……!」
ピエロは額の汗を拭い、腰に手を当てて満足げに息を吐いた。
白塗りのメイクが汗で少しヨレていたが、瞳は達成感に満ち溢れていた。
「完璧……。これこそが人の住む場所よ。さあ……綺麗な空間で、いよいよ十人目のフィナーレを迎撃しましょうか──」
再び斧を手に取ったその時だった。
布団の上で、青年が身じろぎをした。
予期せぬ朝食と恋の爆薬
「……ん……うぅん……」
青年がゆっくりと目を開けた。
耳栓を外し、アイマスクを跳ね上げる。
青年──渡会悠真は、天井を見つめ、それから部屋の中をぐるりと見渡した。
「……あれ……?」
悠真は目を瞬かせた。
昨日まで足の踏み場もなく、論文の締め切りに追われて力尽き倒れ込んだあの汚部屋。
それが、跡形もなく消え去っていた。
空気は清々しく、床は輝き、散乱していたはずの重要論文は完璧なインデックス付きで机に整頓されている。
「ぼ、僕……過労死して天国に来たのかな……?」
呆然と呟く悠真の視界の端に、異様なシルエットが飛び込んできた。
部屋の中央、仁王立ちになり、鋭利な斧を構えて自分を見下ろす、白塗りの殺人ピエロ。
ピエロは喉の奥を鳴らし、これ以上ないほどおどろおどろしい声で吼えた。
「ククク……目が覚めたようだな! 我が名は草加を恐怖で染め上げる道化師! 貴様を十人目の生贄として──」
「あ、あの!」
悠真ががばりと跳ね起き、正座をして畳に頭を擦り付けた。
「本当に、本当にありがとうございますっっっ!!!」
「……は?」
ピエロのドスの利いた声が、間抜けに裏返った。
悠真は顔を上げると、涙目でピエロの手を両手でギュッと握りしめた。
「あなた、掃除代行のボランティアの方ですか!? それとも見かねた妖精さんですか!? 見てくださいこの論文の整理! 僕が三日三晩探しても見つからなかった資料が、一番上にクリップ留めされてる! 床もチリひとつ落ちてなくてピカピカだ……僕、今日が修論の提出日だったんです! 部屋が荒れすぎて精神崩壊寸前だったんです! 本当に……ありがとうございます!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 手を離しなさい! あたしが誰だか分からないの!? この格好を見なさいよ! 手にあるこの斧を見なさいよ!!」
ピエロは激しく動揺しながら斧を突きつけた。
だが、悠真は斧をまじまじと見つめると、感心したように頷いた。
「すごい本格的なコスプレですね! 町おこしイベントですか? あっ、こんな重い小道具を持って掃除してくださったなんて申し訳ないです! すぐにお茶を淹れますから、そこに座ってください!」
「はぁ!? お茶ぁ!?」
悠真はピエロを座布団の上に優しく押しとどめると、部屋の隅にある電気ケトルのスイッチを入れた。戸棚から急須と湯呑みを取り出す。
「テレビもネットも、ここ数ヶ月間研究に没頭しすぎて一切見てなくて……世間に疎くてすみません。あ、これ、実家から送られてきた草加煎餅です。よかったら召し上がってください」
悠真は屈託のない笑みを浮かべ、湯気の立つ緑茶と煎餅の乗った小皿を差し出した。
その笑顔を見た瞬間。
ドクン──。
ピエロの胸の奥で、何かが激しく跳ねた。
丸みを帯びた銀縁メガネの奥にある、澄んだ黒い瞳。
徹夜続きでやつれてはいるものの、鼻筋の通った端正な顔立ち。
何より、自分という異形の化け物を前にして、一切の偏見も恐れも抱かず、純粋な感謝ともてなしの心を向けてくる無垢な温もり。
『……な、なんなの、この人……』
ピエロの脳内に、鐘が鳴り響いた。
それは殺戮衝動の合図ではない。
今まで生きてきて一度も鳴ったことのない種類──恋の爆発音だった。
どストライクだった。
知性的で、少し抜けていて、優しくて、笑うと目尻が下がる塩顔の青年。
まさに彼女が長年思い描いていた『理想の男性』そのものが、目の前で嬉しそうにお茶をすすっているのだ。
「あ、あの……ピエロの方って、洋菓子の方がお好きでしたか……?」
心配そうに小首をかしげる悠真。
「うっ……ううん! いただくわ!!」
ピエロは思わず素の女言葉で叫ぶと、バリボリと豪快に草加煎餅を齧った。
香ばしい醤油の風味が口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
「よかった! こんなボロアパートですけど、ゆっくりしていってくださいね」
悠真は朗らかに微笑んだ。
居室と玄関の間には仕切りの扉があり、居室の中にいる悠真の視界には玄関など入らない。おまけに研究の極限疲労から覚めたばかりの彼は、廊下の先にある玄関ドアが斧で木っ端微塵に粉砕されていることなど、露ほども気づいていなかった。
(……こいつ、玄関ドアがぶち破られてること、ミリ単位でも気づいてないわ……!)
剥がされた仮面とゼミ室の記憶
『このままじゃ、ダメだわ……』
ピエロの動悸は激しさを増すばかりだった。
こんな素敵な人に、白塗りの化け物のままで接していたくない。
一人の女性として、ちゃんと向き合いたい──!
「あ、あのね……! ちょっと、洗面所借りていいかしら!?」
「え? あ、はい、どうぞ!」
ピエロは洗面所へ駆け込み、蛇口をひねった。
石鹸を泡立て、白塗りのドーランと真っ赤な口紅を冷水で洗い落とす。
奇抜なウィッグを脱ぎ捨てると、艶やかな黒髪のロングヘアが肩にこぼれ落ちた。
鏡を見る。
そこには、陶器のように白い肌と大きな瞳を持つ、息を呑むような絶世の美女の顔があった。
「よし……!」
彼女は深呼吸をして居間に戻った。
「お待たせしまし──」
居間に戻った彼女を見て、悠真は湯呑みを落としそうになった。
「えっ……!?」
「あ、あのね……さっきのピエロは、その……余興というか……」
モジモジと俯く彼女の顔を凝視すること数秒。
「あ、あれ……? もしかして……桐島さん……? 情報科学専攻の、桐島梨乃さんですか!?」
「えっ!?」
今度は彼女──桐島梨乃が飛び上がった。
「な、なんであたしの名前を……!?」
「やっぱり! 合同ゼミで一緒ですよ! 水曜二限の『アルゴリズム特論』! 僕、いつも一番後ろの席で受けてる渡会です! 桐島さん、いつも最前列で完璧な発表をしてたから、すごく憧れてたんですよ!」
なんという奇跡。なんという偶然。
無差別に侵入した部屋の住人が、まさか同じ大学院で、同じ合同ゼミを受講している男子だったとは。
「桐島さんがどうして僕の部屋に!? しかもさっきの格好は一体……」
「あ、あれはねっ!」
梨乃の脳細胞が超高速でフル回転した。
ここで「草加市を恐怖のどん底に陥れている殺人ピエロです」などと言えるはずがない。即座に通報されて人生が終了する。
「し、心理学実験よ! 副専攻の認知科学のフィールドワーク! 『極限状態における人間のストレス反応と住環境の関連性』を調べる実験だったの! 渡会くんが修論で缶詰になってるって聞いて、助けに来た……っていうか!」
「そうだったんですか……! なんて崇高な研究への熱意なんだ……! しかも部屋の掃除までしてくれるなんて、桐島さんはなんて心優しい人なんだろう……!」
悠真は完全に信じ切った目で感動の涙を浮かべていた。
あまりのピュアさに、梨乃の良心がチクチクと痛む。
(……騙されやすすぎる! あたしが一生涯かけて守ってあげなきゃダメだわこの人!!)
歪んだ使命感と恋心が奇跡の融合を果たした。
そこからの時間は、二人にとって夢のようなひとときだった。
研究の苦労話、指導教授の理不尽な要求に対する愚痴、使っているプログラミング言語の派閥争いなど、マニアックな話題で信じられないほど会話が弾んだ。
「あはは! あの教授、締め切り直前になって方針変えるから本当に困るよね!」
「そうなんですよ! 先週もシミュレーションやり直したんです!」
笑い合い、共感し合う二人。
気づけば窓の外は完全に明るくなり、朝の八時を告げるチャイムが響いていた。
「あ……修論、提出しに行かなきゃ」
「そうね。あたしも一旦帰るわ」
梨乃は立ち上がると、凶器の斧を素早くバスタオルで包んで背中に隠した。
居室の扉を開けて玄関廊下へと出ると、そこには自分が派手に叩き壊した玄関ドアの無惨な残骸が散らばっていた。
(……危ない! 渡会くんが玄関に出てくる前に何とかしなきゃ、あたしが壊したってバレちゃう!!)
「あ、あのね渡会くん! ちょっと玄関ドアの建付けが悪そうだったから、ついでに応急処置しておくわね!」
梨乃は常備していた工業用超強力ガムテープを取り出すと、砕けた木片をパズルのように組み合わせ、プロ顔負けの手際で外側からも内側からも元通りに見えるようドアを貼り合わせた。
「えっ、わざわざすみません! 桐島さん、DIYまで得意なんですか!?」
居室の奥から感心したような悠真の声が返ってくる。
「ええ、まあね! じゃあ渡会くん、また大学でね!」
「はい! 桐島さん、本当にありがとうございました! 今度、お礼にご飯奢らせてください!」
「……! う、うん! 絶対よ! 約束だからね!!」
梨乃は顔を真っ赤に染めながら、修復したドアをそっと閉めてアパートを後にした。
過去の清算と親友の部屋
アパートを出た梨乃の足取りは、最初は軽やかだった。
しかし、自宅へ向かうにつれて表情は険しいものへと変わっていった。
『ご飯……デートの約束をしちゃった……』
胸が張り裂けそうなほど嬉しい。
だが、今の自分にその資格があるだろうか?
自分は九人もの人間を無差別に殺害してきた凶悪殺人鬼だ。いつ警察の捜査網が狭まるか分からない。
「あたし……生まれ変わらなきゃ」
梨乃は強く拳を握りしめた。
「真っ当な、清らかな体になって……渡会くんのお嫁さんになるの! そのためには……あたしのこの罪深き過去を、完全に消し去らなきゃいけないわ」
自首など論外。証拠隠滅して怯えながら暮らすのも嫌だ。
では、どうすればいいか?
答えはシンプルだった。
「身代わりを立てればいいのよ」
梨乃の頭に、大親友の顔が浮かんだ。
大学からの親友であり、何でも話せる仲の──佐々木サキ。
サキはいつも「あたし刺激的な体験がしたいのよねー」「悪女ってカッコよくない?」などと軽口を叩いていた。
『サキ……アンタなら、あたしのこの大いなる愛の礎になってくれるわよね?』
梨乃の瞳に、再び底知れぬ狂気の光が宿った。
愛する男のためなら、世界中を敵に回しても構わない。親友の一人生贄に捧げることなど何の躊躇いもなかった。
完璧なる偽装工作
その日の深夜。
草加市内の住宅街にある、サキの住むマンションの前に梨乃の姿があった。
パルクール仕込みの身軽さで三階のベランダへと飛び移り、プラスチック板で鍵を無音解錠。
寝室では、サキが毛布にくるまって爆睡していた。
スピー……スピー……
「ふふ、いい夢見てるわね、サキ」
梨乃は大きなボストンバッグを開けた。
血染めのピエロ衣装。
九人の命を奪ってきた大型斧。
そして──サキの筆跡を完璧に模倣して書き上げた、狂気じみた『殺人日記』。
『○月×日、今日もあの愚かな豚を一人屠った。血飛沫が最高のアートだ』
『ピエロのメイクをすると、神になったような全能感を覚える』
サキの普段の筆跡、インクの種類、ノートのメーカーまで一致させた完璧な偽造証拠の数々。
クローゼットや机の引き出しに手際よく配置し、寝ているサキの手を取って斧の柄をしっかりと握らせ、指紋を付着させる。
「よし……完璧ね」
梨乃は音もなく脱出すると、近くの公衆電話から110番をプッシュした。
「……もしもし、警察ですか? 早く来てください……! 新栄町二丁目のマンション、佐々木サキという女の部屋です……! あいつの部屋に、あの連続殺人ピエロの衣装と、血のついた斧が隠されています……! あいつが犯人です、今すぐ捕まえてください……!」
迫真の演技で通報を終えると、ハンカチで指紋を拭き取った。
数十分後。
サキのマンションの周囲をパトカーが完全包囲した。
赤色灯が夜空を赤く染め上げ、けたたましいサイレンが響き渡る。
「佐々木サキ! 警察だ! お前を連続殺人の容疑で逮捕する!!」
「えっ!? なに!? あたし何もしてな──きゃあぁぁぁっ!?」
手錠をかけられパトカーへ連行されていくサキの絶叫が木霊した。
決定的な証拠の数々が押収され、翌朝のニュースは『草加の殺人ピエロ、ついに逮捕! 犯人は女子大生!』という特大の見出しで持ちきりとなった。
二人だけのハッピーエンド
一週間後。快晴の午後。
草加松原遊歩道を、並んで歩く二人の姿があった。
「本当に、サキが犯人だったなんて信じられないよ……。同じ大学にそんな恐ろしい殺人鬼がいたなんて」
悠真が沈痛な面持ちで溜息をついた。
その隣には、淡いピンクのワンピースを着た梨乃が、しおらしく寄り添っていた。
「そうね……あたしも、大親友だったサキがそんな恐ろしい人だったなんて、今でも信じられないわ……すごくショックで、夜も眠れなかったの……」
梨乃はハンカチを目元に当て、か弱き乙女のように肩を震わせてみせる。
その姿に、悠真の保護欲は限界まで刺激されていた。
「桐島さん……辛かったね。でも、もう大丈夫だよ。これからは僕が君を守るから」
悠真が意を決したように、梨乃の華奢な手を優しく握りしめた。
梨乃は満面の笑みを浮かべた。
「渡会くん……! ありがとう……! あたし、渡会くんと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる気がする!」
「あ、あのさ……桐島さん。修論の審査、無事に合格したんだ。これも全部、あの朝君が部屋を綺麗にしてくれて、励ましてくれたおかげだよ。だから……これからも、ずっと僕の隣にいてくれないかな?」
「はいっ! 喜んで……!」
二人は見つめ合い、幸せそうに微笑み合った。
そのままギュッと腕を組み、仲睦まじく歩き出す。
無実の罪で極刑の危機に瀕している大親友サキのことなど、梨乃の頭の片隅にも残っていなかった。
九人の犠牲者の無念も、警察の誤認逮捕の行方も、どうでもいい。
大切なのは、大好きな人と結ばれたという事実だけだ。
自分たち二人さえ幸せなら、世界がどうなったって構わない。
川沿いの松並木を吹き抜ける風が、二人の門出を祝福するように通り過ぎていった。
晴れ渡る青空の下、恋する元殺人鬼の笑顔は、世界中の誰よりも美しく、そしてどこまでも深く狂い咲いていた。
