鮮血の支配者と豊橋の白い天使
人の血管を流れる赤き奔流は、生命の源にして魂の器である。もしその一滴に、他者の自由意志を根底から書き換える呪いが宿っていたとしたら──世界は気づかぬうちに、ただ一人の支配者の前にひれ伏すことになるだろう。
愛知県豊橋市。路面電車がガタゴトと長閑な音を立てて走る駅前大通りを見下ろしながら、俺──緋村玲央は黒ずくめのロングコートの襟を立て、唇の端を不敵に吊り上げていた。
十一月の乾いた秋風が、豊橋駅のペデストリアンデッキを吹き抜けていく。行き交う市民たちは誰も知るまい。自分たちの暮らすこの東三河の都市から、日本全土を揺るがす前代未聞の「人類家畜化計画」が始まろうとしていることを。
(ふふ……愚かな人間どもめ。せいぜい今のうちに、束の間の自由を謳歌しておくがいい)
俺は黒いレザーグローブに包まれた自らの右手を掲げ、透き通るような秋空にかざした。
生まれつき、俺の体内を巡る血液には特異な呪い──すなわち絶対服従因子が宿っている。古の魔導の血統か、あるいは突然変異の超常現象か、俺の血をわずかでも体内に取り込んだ者は、脳の深層意識を完全に掌握され、俺の命令に絶対逆らえない忠実な眷属へと変貌するのだ。
かつて幼少期に、俺が膝を擦りむいた際、傷口を舐めた近所の狂暴な野良犬が、その瞬間から俺の後ろを一歩も離れず付き従い、目が合うたびにお腹を見せる忠犬になったことがあった。さらには高校時代、調理実習で指を切った俺の血がほんのわずか混入したスープを飲んだ不良グループのリーダーが、翌日から俺を見るなり直角に頭を下げてパシリを志願してきたこともある。
間違いなかった。俺の血は、他者を無条件に屈服させる至高の支配の霊薬なのだ。
(だが、一人ずつ傷口から血を飲ませていては効率が悪すぎる。この日本の一億二千万の民を効率よく俺の奴隷へと作り変えるには、国家的インフラを逆利用するしかない……!)
そこで俺が目をつけたのが、近代医療の根幹を支える「献血システム」だった。
俺が献血センターに赴き、自らの呪われた血液を惜しげもなく提供する。するとどうなるか。何も知らない日本赤十字社のネットワークによって、俺の血液は厳重に保管・輸送され、豊橋市内はおろか名古屋、東京、大阪といった全国の医療機関へと自動的にバラ撒かれるのだ。
そして手術や輸血を通じて俺の血を取り込んだ患者たちは、退院する頃には皆、俺に絶対の忠誠を誓う秘密の奴隷軍団となっている──!
「ククク……ハハハハハ! 完璧だ、あまりにも完璧すぎる作戦だぜ! 名付けて『ブラッディ・ドミネーション計画』! 待っていろよ日本、今にこの緋村玲央様の足元にひれ伏させてやるからな……!」
道行く女子高生たちが、独り言を呟きながら不敵に微笑む俺を見て「えっ、あの人めっちゃイケメンだけど何か怖いこと言ってない?」「コスプレの撮影かな?」とヒソヒソ囁き合いながら通り過ぎていく。
俺はそんな視線を意にも介さず、駅前のビルの一角に掲げられた看板を見据えた。
あなたの勇気が、誰かの未来をつなぎます。ただいまA型・O型の400mL献血が特に不足しています。皆様の温かいご協力を心よりお待ちしております。
看板には可愛らしいマスコットキャラクターとともに、そんな清らかな呼びかけが記されていた。
俺は鼻で笑い、自動ドアの向こうに広がる「豊橋まちなか献血ルーム」へと意気揚々と足を踏み入れたのである。
惨劇の検査室と折れた魔王のプライド
献血ルームの内部は、俺が想像していたような薄暗い実験施設とは似ても似つかぬ、明るく清潔で温かみのある空間だった。
ほのかに漂うコーヒーと消毒液の香り。柔らかな照明の下にはふかふかのソファが並び、壁際のラックには最新の漫画や雑誌、さらには豊橋名物のブラックサンダーをはじめとするお菓子の数々が置かれている。
「いらっしゃいませ! 本日は献血のご協力ありがとうございます!」
受付のベテラン職員らしき女性が、明るい笑顔で俺を迎えてくれた。
(フッ……せいぜい歓迎するがいい。まさか自分たちが、世界を滅ぼす魔王の血を受け入れているとは夢にも思わないのだろうからな)
俺は内心で邪悪な笑みを浮かべつつ、外面は極めて礼儀正しい好青年を装って「あ、どうも。初めてなんですけど、お願いします」と爽やかに頭を下げた。闇の支配者たるもの、世を忍ぶ仮の姿では完璧な擬態を施すのが流儀というものだ。
タッチパネルのタブレットで問診票への回答を済ませる。
画面に浮かび上がる確認項目を、俺は冷徹な眼差しで次々とタップしていく。【質問】今日、体調は良いですか? → はい【質問】3日以内に、出血を伴う歯科治療を受けましたか? → いいえ【質問】現在、世界に絶対服従因子を拡散しようと企んでいますか?
……最後の質問は俺の脳内が作り出した幻覚だったが、俺は何食わぬ顔で受付を終え、血圧測定と医師による簡単な問診を難なく突破した。
医師のおじいちゃん先生から「うん、脈も安定しているし、立派な体格だね。それじゃあ次は事前の血液検査に行きましょうか」と案内され、俺は採血フロアの入り口にある小さな検査ブースへと通された。
(いよいよか……。さあ、俺の宿りし魔血よ、まずはその片鱗をこの世界に刻み込め!)
俺は検査ブースの椅子に深く腰掛けた。
担当してくれたのは、眼鏡をかけた実直そうな中年の女性看護師だった。
「はい、緋村さんですね。それでは本番の献血の前に、血液の濃さ──ヘモグロビン濃度と血液型を調べるために、指先からほんの少しだけ血を採らせていただきますね」
(ほう、指先からか。構わん、好きにするがいい)
俺は余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべて頷き、言われるがままに右手の中指をテーブルの上に出した。
看護師がアルコール綿で俺の指先をキュキュッと拭く。ひんやりとした感触が心地よい。そして彼女が手に取ったのは、小さな白いプラスチックの器具──指先穿刺用のランセットだった。
「じゃあ、指先にちょっとだけパチンと針が当たりますよー。すぐ終わりますからねー」
(フッ、俺を誰だと思っている。闇を統べる者に、その程度の刺激など蚊に刺されたほどにも──)
俺が脳内で不敵なセリフを完結させるよりも早く。
看護師が俺の中指の腹に白い器具を押し当て、迷いなくボタンを押した。
パチンッ!!
乾いた小さな機械音が響いた、次の瞬間だった。
俺の中指の先端、神経が最も密集しているその一点に、まるで灼熱の槍を真正面から突き立てられたかのような鮮烈な激痛が走った。
「……ッ!? ぎゃあああああああああああああっ!!」
自分でも信じられないほどの超高音の絶叫が、静かな献血ルームの天井を突き破らんばかりに木霊した。
「い、いったあああああい!! 痛い痛い痛い痛いっ!! 何これ!? 今、俺の指にギロチン落ちましたよね!? 指先がっ、俺の魔力を秘めた右の中指が真っ二つに弾け飛んだんですけどおおおおっ!!」
俺は椅子から転げ落ちんばかりの勢いで仰け反り、パチンと刺された右の中指をかばうように左手で右手首を必死に押さえ込みながら、大粒の涙をボロボロとこぼして足をバタつかせた。
そう、俺には誰にも言えない致命的な弱点があったのだ。
俺は──極度の先端恐怖症にして、痛覚が常人の十倍は敏感な、超絶痛がり体質だったのである!
「えっ!? あ、あの、緋村さん!? 大丈夫ですか!? まだ0.5ミリくらいしか刺さってないんですけど……!」
眼鏡の看護師さんが、目を白黒させてパニックに陥っている。
俺の指先からは、ぷっくりと小さな赤い血の玉が一滴だけ滲み出ていた。たった一滴。しかし俺の主観では、まるで大動脈をチェーンソーで切り裂かれたかのような大惨事だった。
「うわあああん! 赤い! 俺の血が出てるぅぅぅっ! ジンジンする! 絶対これ骨まで貫通してますって! ママァーーッ!!」
待合ロビーでお菓子をつまんでいた他の献血者たちが、何事かと一斉にこちらを振り返る。
ベテラン職員たちが「どうしたの!?」「急患!?」と駆け寄ってくるが、原因が「指先の事前検査でパチンとしただけ」だと知ると、全員が言葉を失って引きつった表情を浮かべた。
(あ、あれ……? こんなはずじゃ……)
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった視界の端で、困惑しきった職員たちがヒソヒソと顔を見合わせているのが見えた。
「ちょっと、指先の検査であんなに泣き叫ぶ大人の男の人、私この道二十年だけど初めて見たわよ……」
「小学生でももうちょっと我慢するのにね……どうしましょう……」
俺の魔王としての威厳は、わずか一秒で木っ端微塵に粉砕されていた。
指先のジンジンする痛みと、周囲からの痛々しい視線。しかも冷静に考えれば、これはまだ「事前の検査」なのだ。本番の献血では、これよりはるかに太い針を肘の血管にブスリと刺して、400ミリリットルもの血液を抜き取るというではないか。
(む、無理だ……! 指先をパチンとされただけで魂が抜けるほど痛いのに、腕に太い針なんか刺されたら俺は確実にショック死する! 日本支配とかもうどうでもいい! 帰る! 俺は今すぐお家に帰って温かいココアを飲むんだ!!)
「す、すみません……っ、俺、やっぱり今日ちょっと用事を思い出したんで……献血、やめます……っ!」
俺は涙目で絆創膏を指に貼ってもらいながら、震える膝を叱咤して椅子から立ち上がろうとした。人類家畜化計画は、開始からわずか十五分で幕を閉じる──はずだった。
舞い降りた白衣の聖女と血液不足の現実
「お待ちください! 大丈夫ですよ、緋村さんっ!」
その時だった。
カーテンの向こうから、まるで春のそよ風と鈴の音を溶け合わせたような、信じられないほど澄み切った可憐な声が響いたのは。
顔を上げた俺の視界が、一瞬にしてスローモーションに切り替わった。
小走りで駆け寄ってきたのは、淡いピンク色のナース服に身を包んだ一人の若い女性職員だった。
肩まで伸びた艶やかな栗色の髪がふわりと揺れ、雪のように白く透き通った肌と、零れ落ちそうなほど大きな琥珀色の瞳が俺を見つめている。胸元のネームプレートには『白咲乃愛』と記されていた。
芸能人やモデルすら裸足で逃げ出すような、文字通りの超絶美少女。
しかもその表情には、泣き喚いた俺を馬鹿にするような色は微塵もなく、ただ純粋な慈愛と心配りの光だけが満ち溢れていた。
「あの、笑わないで聞いてくださいね。指先の検査、すっごく痛かったですよね……! 実は指先って、人間の体の中で一番痛覚の神経が集まっている場所なんです。だから、そこでびっくりしちゃうの、ちっともおかしくないんですよ」
白咲さんは俺の目線に合わせて膝を折り、両手で俺の震える手をそっと包み込むようにして、花が開くような笑顔を向けた。
「でもね、緋村さん。献血をしようって思って、このドアを開けてここまで来てくださった……それだけですっごく立派で、誰にでもできることじゃないんです。見ず知らずの誰かを救うために勇気を出してくださったこと、私、本当にすごいなって思います!」
(な、なんだこの生き物は……!? 天使か!? 豊橋の駅前に本物の天使が降臨していらっしゃるのか!?)
俺の脳内で、邪悪な野望を司る回路がショートして火花を散らした。
ふわっと香る石鹸の甘い匂い。間近で見つめてくる潤んだ瞳。そして何より、大の大人が指先パチンで「ママァ!」と泣き叫んだ直後だというのに、全肯定で褒め称えてくれるこの聖母のごとき包容力。
「指先に比べたら、腕の血管のところは神経が少ないので、意外と『あれ? こんなものか』って終わっちゃう方が多いんですよ。せっかくここまで勇気を出して来てくださったんですもの、あとちょっとだけ、私と一緒に頑張ってみませんか?」
白咲さんが小首をかしげ、上目遣いにじっと俺の瞳を覗き込んでくる。
その破壊力は、俺の絶対服従因子を遥かに凌駕していた。
(う、うおおおおおおっ!! こんな超絶美少女にここまで言われて、尻尾を巻いて逃げ出せる男がどこにいる!? 俺は闇の支配者だぞ! いや、支配者とかどうでもいいけど、この子の前でだけは絶対にかっこ悪いところを見せたくない!!)
「……や、やります。俺、やりますよ白咲さん! さっきのはちょっと、指先に魔力……じゃなくて神経を集中しすぎてただけなんで!」
「わあ、よかったぁ! ありがとうございます、緋村さん!」
俺が空元気で胸を張ると、白咲さんは自分のことのようにパァッと顔を輝かせた。周囲で困惑していたベテラン職員たちが「さすが乃愛ちゃんね……」「あの子にかかるとどんな人でもイチコロだわ」と感心したように頷き合っている。
白咲さんは俺を採血ベッドへと案内しながら、紙コップに入った温かいスポーツドリンクを手渡してくれた。
「まずはこれを飲んで、ゆっくり深呼吸してくださいね。……実は今、緋村さんみたいな若い方が来てくださるの、本当にありがたいんです」
リクライニング式の白い採血ベッドに俺が横たわると、白咲さんはベッドの脇で準備を整えながら、少しだけ真剣な眼差しで語り始めた。
「少子高齢化が進んでいることもあって、今、日本中で献血をしてくださる方が年々減ってしまっているんです。特に十代から三十代の若い世代の方の献血離れが深刻で……このままいくと、将来的に手術や治療に必要な血液が足りなくなってしまうって言われているんですよ」
「そ、そうなんですか……?」
俺は思わず素のトーンで聞き返していた。
白咲さんは頷き、採血バッグを手に取りながら言葉を続ける。
「はい。どんなに科学や医療が進歩しても、人間の血液だけは、まだ人工的に作ることができないんです。しかも、いただいた血液には短い有効期限があって、赤血球なら採血後二十八日間、血小板にいたってはたった四日間しか保存できません。だから、毎日誰かが継続して献血してくださらないと、病気と闘っている患者さんの命をつなぐことができないんです」
その言葉には、現場で命と向き合う医療従事者ならではの切実な重みがあった。
俺は本来、日本中の人間を奴隷にするためにここへ来た異常者だ。だが、目の前の美少女がこんなにも真剣に、誰かの命を救うために心を砕いている姿を見せつけられると、なんだか自分まで崇高な使命を背負ったヒーローになったかのような錯覚に陥ってしまう。
(ふ、ふん……! ま、まあいいだろう。俺の真の目的はあくまで絶対服従因子の拡散だが、その結果として血液不足が解消され、白咲さんが笑顔になるというのなら、一石二鳥というものだ!)
俺が脳内で苦しい言い訳を組み立てていると、白咲さんが「それでは、左腕の消毒をしていきますね」と微笑み、俺の腕をそっと支えた。
実のところ、この時の白咲乃愛の胸の内には、俺が想像もしていなかった別の感情が渦巻いていた。
(……っ、どうしよう、この緋村さんって人、お顔が完全に私のどストライクすぎる……!!)
そう、白咲さんは無類のイケメン好き──とりわけ「普段はクールでミステリアスな雰囲気なのに、実は怖がりで泣き虫なギャップのある男性」に目がないという、隠れた性癖の持ち主だったのである。
先ほど受付に現れた時の俺の、黒コートを纏った長身と鋭く整った顔立ち。それが指先の検査一つで涙目になり、顔を真っ赤にして震えている姿を見た瞬間、白咲さんの心臓は母性と庇護欲で爆発寸前になっていたのだ。
(こんなに綺麗なお顔をして、背も高くてスタイルも抜群なのに、針が怖くて泣いちゃうなんて……可愛すぎて無理! 絶対私が最後までサポートして、またこのルームに来てもらえるようにしなきゃ!)
互いの邪悪な野望と歪んだ庇護欲が、奇跡的なすれ違いを起こして完全に噛み合った瞬間だった。
恐怖の極太針と芽生える倒錯の絆
「じゃあ緋村さん、駆血帯を巻きますねー。少し腕が締まりますよ」
「う、うむ……いつでも来い……」
俺はベッドの上で精一杯のダンディな低音ボイスを絞り出した。
しかし、白咲さんがトレイの上から取り出した「本番用の採血針」が視界に入った瞬間、俺の顔面からすべての血の気が引いて蒼白になった。
(ふ、太いッ!! なんだあの針の太さは!? あれは医療器具じゃない、完全に暗殺用の吹き矢か工事現場のドリルだろ!!)
全血献血に使われる針は、血球が壊れないように通常の採血針よりも一回り太い17ゲージという規格になっている。
先端がキラリと冷酷な銀色の光を放つそれを見た途端、俺の血圧は急降下し、意識が遠い宇宙の彼方へと飛びかけた。
「ひ、ひぃぃっ……! し、白咲さん、それ、本当に人間の腕に刺すやつですか……!? ゾウとかキリン用じゃなくて……!?」
「ふふっ、大丈夫ですよ! 見ていると怖くなっちゃうので、こっち──私の顔だけ見ていてください!」
白咲さんは俺が卒倒しかけているのを察知するやいなや、胸の前で震えていた俺の右手を空いている左手でギュッと握りしめ、至近距離まで顔を近づけてきた。
まつ毛の一本一本まで数えられそうな距離。白咲さんの柔らかい手のひらから伝わる温もりと、甘い香り。
「はい、そのまま私の顔だけ見ていてくださいね……いち、にい、さんのタイミングで深く息を吐いてください。いきますよ、せーのっ……」
「ふ、ふぅぅぅぅぅ──っ、ひゃうんっ!?」
チクリ、と確かな痛みが左肘の内側を貫き、俺の口からおよそ闇の支配者とは思えない情けない奇声が漏れた。
だが、白咲さんに手を握られ、至近距離にあるその可憐な顔を見つめているうちに、気づけば針はしっかりと血管の中に収まり、手際よくテープで固定されていたのである。
「……えっ? あ、あれ? もう刺さってるんですか?」
「はい! バッチリですよ、緋村さん! ほら、全然平気だったでしょう?」
白咲さんが自分のことのように嬉しそうに微笑む。
俺が恐る恐る左腕に目をやると、透明なチューブを通って、俺の赤黒い血液がスルスルと採血バッグの中へと流れ込んでいくのが見えた。
(お、おお……! 出ている! 俺の呪われし血液が、今まさに医療システムの奔流へと解き放たれているぞ!)
痛みさえ乗り越えてしまえば、こっちのものだった。
白咲さんは採血中の約十分間、俺のそばを離れず「手先、冷たくないですか?」「気分は悪くないですか?」と驚くほど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。湯たんぽを腕に添えてくれたり、豊橋の美味しいカフェの話を振って緊張をほぐしてくれたりと、至れり尽くせりのVIP待遇である。
やがて400ミリリットルの採血が無事に完了し、俺はベッドから降りて休憩スペースで白咲さんおすすめのイチゴオレを堪能した。
「緋村さん、今日は本当にありがとうございました! 最初の検査であんなに怖かったのに、最後までやり遂げるなんて本当にすごいです。……あの、もしよかったら、また元気なお顔を見せに来てくださいね?」
帰り際、献血カードを手渡しながら、白咲さんが頬をほんのりと染めて上目遣いに言った。
俺の胸の奥が、ドクンと大きく跳ね上がる。
(くっ……俺としたことが、たかが人間の娘ごときに心を揺さぶられるとは……! だが、言われるまでもない! 日本全国を俺の奴隷で埋め尽くすためには、こんな一回の献血では到底足りないのだからな!)
「ああ、もちろんだ。俺の血が求められている限り、何度でもここへ足を運ぼう。……また会おう、白咲さん」
俺は黒コートの裾を翻し、最高にキザな決め台詞を残して献血ルームを後にした。
自動ドアが閉まった直後、エレベーターホールで左肘の止血バンドを押さえながら「うぅぅ、やっぱりまだ腕がジンジンするぅぅ……」と半泣きでうずくまったことは、誰にも知られていないトップシークレットである。
繰り返される逢瀬と忍び寄る年間上限の絶望
それからというもの、俺の生活は「豊橋まちなか献血ルーム」を中心に回り始めた。
男性が400ミリリットルの全血献血を行った場合、次に献血ができるようになるまでには十二週間の間隔を空けなければならない。
俺はスマホのカレンダーにきっちりと解禁日を記録し、鉄分たっぷりのレバーやほうれん草を食べて造血に励み、万全のコンディションを整えては、三ヶ月ごとに献血ルームへと突撃した。
(フハハハハ! 今頃、俺の第一弾の血液を輸血されたどこかの誰かが、原因不明の絶対服従衝動に目覚めているはずだ! さらに第二弾、第三弾と呪いの血を送り込めば、愛知県はおろか東海地方全域が俺の意のままに蹂躙される日も近い!)
もちろん、毎回最初の指先検査と本採血の針を刺す瞬間だけは「ひぃぃぃっ! 白咲さぁぁん、手ぇ握っててぇぇぇっ!!」と涙目でしがみつくという醜態を晒していたのだが、どういうわけか白咲さんの好感度は下がるどころか、回を重ねるごとにうなぎ登りに上昇していた。
「緋村さん、今日で二回目ですね! 来てくださるって信じてました!」
「わあ、三回目! もうすっかりベテランさんですね。はい、今日も私がずっと手を握っていますから、安心してくださいねっ」
白咲さんは俺が来所するたびに、他のどの職員よりも早く駆けつけ、まるで恋人を歓迎するかのような満開の笑顔で俺の担当に入ってくれた。
採血中も二人の会話はどんどん弾み、お互いの休日の過ごし方や好きな食べ物の話で盛り上がるようになっていた。俺にとっても、日本支配という邪悪な目的と同じくらい──いや、正直に白状すればそれ以上に、白咲さんに会って手を握ってもらいながらお喋りする時間が、人生最大の楽しみになっていたのである。
だが、三回目の400ミリリットル全血献血を終え、休憩ロビーでお気に入りのイチゴオレを飲んでいた俺に、思いもよらぬ残酷な宣告が下された。
「緋村さん、今日もありがとうございました! お疲れ様でしたっ」
仕事を終えて休憩スペースにやってきた白咲さんが、笑顔で俺の向かいの席に腰を下ろした。そして、俺の献血カードを確認しながら、何気ない口調でこう言ったのだ。
「ええと、緋村さんは昨年の十一月から数えて400ミリリットル献血を三回やってくださったので……一年間の総採血量が上限の1200ミリリットルに達しましたね。なので、次の全血献血ができるのは、今年の十一月以降になります!」
「…………は?」
俺の手の中で、紙コップがミシリと音を立てた。
「ね、年間1200ミリリットルまで……? じゃあ、三回やったら、もうそれ以上は血を採ってもらえないんですか……!?」
「はい、そうなんです。献血者の方の健康を守るために、400ミリリットル献血は男性でも一年に三回までって法律の基準で決まっているんですよ」
ガーーーン!!
俺の脳内に、世界の終焉を告げる巨大な鐘の音が鳴り響いた。
なんだと……!? 一年にたった三回しか血をバラ撒けないだと!?
仮に一回の献血で一人の患者に輸血されたとして、一年に増やせる奴隷の数はたったの三人。日本の一億二千万人の国民をすべて俺の眷属にするには、単純計算で四千万年もかかるではないか! 人類が滅亡しても終わらないぞ!
(そ、そんな馬鹿な……! これじゃあ俺のブラッディ・ドミネーション計画が完全に破綻してしまう……! このままでは奴隷が増やせないじゃないかあああっ!!)
俺はテーブルに突っ伏し、両手で頭を抱えて、文字通りこの世の終わりのような絶望の表情を浮かべた。瞳から光が消え、全身から黒いオーラが立ち昇り、唇はワナワナと震えて声にならない慟哭を漏らす。
「お、終わりだ……すべてが終わった……半年近くもここから締め出されるなんて、あんまりだぁぁ……っ」
俺が嘆いていたのは「奴隷が増やせないこと」だったのだが、それを見つめていた白咲さんの目には、まったく別の光景として映っていた。
(えっ……!? ひ、緋村さん、十一月まで献血ができないって言われただけで、あんなにショックを受けてるの……!?)
白咲さんの顔が、耳の先まで真っ赤に沸騰した。
(あんなに針を怖がっていた人が、三ヶ月ごとに頑張って通ってくれていたのって……もしかして、私に会うためだったの!? それなのに、これから半年近くもここに来られなくなって、私に会えなくなるのがそんなに悲しくて、この世の終わりみたいな顔をしてくれてるんだわ……!!)
なんという純情で幸せな勘違いだろうか。
白咲さんは胸の奥から込み上げてくる愛おしさに耐えきれず、身を乗り出して俺の肩を掴んだ。
「ひ、緋村さん! 顔を上げてください! まだ方法はありますっ!」
「……え? 方法……? 闇のルートで非合法に採血してくれるんですか?」
「違いますよっ! 全血献血は年三回までですけど、『成分献血』っていう方法があるんです!」
白咲さんは目を輝かせながら、熱っぽく説明を始めた。
「成分献血は、専用の機械を使って血液の中から血小板や血漿といった特定の成分だけを採らせていただいて、回復に時間がかかる赤血球はすぐに緋村さんの体の中にお返しする方法なんです! これなら体への負担がとっても少ないので、二週間に一回──なんと、一年に最大二十四回も献血に来ていただけるんですよ!!」
「ね、年二十四回……ッ!?」
その言葉は、絶望の淵に沈んでいた俺の耳に、天上からの福音として響き渡った。
一年に二十四回! 全血献血の実に八倍のハイペースで、俺の絶対服従因子を世に放つことができる! しかも二週間に一度、合法的にこのルームを訪れ、白咲さんに手を握ってもらいながらイチャイチャ──いや、崇高な医療貢献に励むことができるというのか!
「しかもね、緋村さん。成分献血は採血に四十分から一時間くらいかかるので……その間、私が今まで以上にずーっと緋村さんの隣について、いっぱいお話しできちゃいます……っ!」
顔を真っ赤にして、モジモジと指先を絡ませながら微笑む白咲さん。
俺の顔から絶望の影が一瞬にして消え去り、代わりに太陽のように眩しい満面の笑みが咲き誇った。
「やります!! 俺、成分献血やりますよ白咲さん!! 二週間に一回、必ずここに来ます! 俺の血のすべてを、あなたに捧げます!!」
「っ……! は、はいっ! 私、いつでも待ってますからね、緋村さんっ!」
俺が感極まって白咲さんの両手を握りしめると、彼女も嬉しそうに瞳を潤ませて握り返してきた。
二人の間には、もはや誰も立ち入ることのできないピンク色の甘い空間が形成されていた。
その様子を、受付カウンターの奥から温かい緑茶をすすりながら眺めていたベテランのおばさん職員たちが、微笑ましそうに目を細めて頷き合っていた。
「あらあら、見てよあの二人。手なんか握っちゃって、完全に二人の世界じゃない」
「最初は指先の検査で大泣きしてた男の子なのにねえ。乃愛ちゃんに会いたい一心で二週間に一回通うようになるなんて、若いっていいわねぇ」
「間違いないわ、あれは絶対付き合うわね。お祝いの準備でもしておきましょうか」
おばさん職員たちの祝福の囁きが響く中、俺は(フハハハ、これで日本支配も白咲さんとの楽しい時間も両方手に入ったぞ!)と勝利の美酒──もとい紙コップのイチゴオレに酔いしれていた。
遠心分離機の真実と終わらない献血デイズ
──なお、その裏で。
愛知県内の血液センターの最新鋭の製剤ラボにて、緋村玲央から採取された血液がどのような運命を辿っていたのか、本人は知る由もなかった。
献血ルームで採血された血液は、そのまま患者に輸血されるわけではない。
現代の高度な輸血医療においては、安全性を極限まで高めるため、採取された血液に対して何重もの厳密な処理が施されるのだ。[PROCESS: PRE-STORAGE LEUKOCYTE REDUCTION / CENTRIFUGATION][STATUS: ANOMALOUS FACTOR DETECTED -> FILTERING COMPLETE]
まず、血液バッグは専用の白血球除去フィルターを通過する。このミクロの網目によって、副作用の原因となる白血球とともに、緋村の血に混ざっていた「呪いの魔力粒子」の大半が綺麗に吸着・濾過されてしまう。
さらにその後、高速で回転する遠心分離機にかけられ、各成分へと精密に分離される過程で、残っていた微量の絶対服従因子も遠心力と放射線照射処理によって完全に無害なタンパク質へと分解・除去されていたのである!
つまり、緋村がどれほど涙を流して針の痛みに耐え、年間二十四回の成分献血を繰り返そうとも、病院の患者たちに届くのは「絶対服従因子が100パーセント綺麗さっぱり取り除かれた、極めて純粋で健康的なただの優良血液」だったのである。
彼の血液によって奴隷になった人間は、日本全国にただの一人も存在しなかった。ただ純粋に、彼の献血によって救われた多くの患者たちが「どこの誰かは知らないけれど、献血してくれた優しい人に感謝しなくちゃね」と笑顔で退院していっただけだった。
もちろん、そんな衝撃のオチを知らない俺は、その後も二週間に一度の成分献血のために、今日も今日とて豊橋まちなか献血ルームのベッドの上で涙目を浮かべていた。
「ひ、ひぃぃぃっ! 乃愛さん、やっぱり何回やっても最初の指先パチンと腕の針だけは慣れませんってぇぇぇっ!!」
「ふふっ、大丈夫ですよ玲央さん。ほら、今日も私がぎゅーって手を握ってますから、こっちだけ見ていてくださいね?」
いつの間にか下の名前で呼び合うようになり、さらには「献血の後に東三河のカフェ巡りデートをする」という約束まで取り付ける仲になっていた俺たちは、今日も周囲のおばさん職員たちを生温かい笑顔にさせながら、一時間の成分献血タイムを仲睦まじく過ごすのだった。
俺の「日本全土・人類家畜化計画」が達成される日は永遠に来そうにないが──どうやら俺自身が、この白衣の天使に一生頭が上がらない忠実な僕になる日だけは、すぐそこまで迫っているらしかった。
