斐伊川のほとりと黒い目出し帽
『夜間、木次駅周辺の路地裏にて不審者の目撃情報が相次いでいます。黒い目出し帽を着用し、両手に動物の人形を装着した人物を見かけた際は、決して近づかず、速やかに警察へ通報してください──雲南市防犯協会』
島根県雲南市。春には桜のトンネルが街を彩り、ヤマタノオロチ伝説が息づくこの静かな山間の街に、ここ数週間ほど奇妙で物騒な噂が飛び交っていた。
通称、「パペット通り魔」。
深夜の路地裏や誰もいない河川敷の遊歩道に突如として現れ、通行人の行く手を阻む謎の黒い影。しかし、その犯行手口は古今東西の犯罪史を紐解いても類を見ないほど異様なものだった。
湿った夜風が吹き抜ける三刀屋の古い路地裏。
街灯の明かりが頼りなく瞬く死角に、その「通り魔」は立っていた。
頭からすっぽりと被った漆黒のニット製目出し帽。華奢な体のラインを隠すような、少しサイズの大きすぎる黒のパーカー。だが、その凶悪な出で立ちとは裏腹に、彼女の両手にはひどく愛らしい「ウサギ」と「クマ」のハンドパペットがすっぽりとはめられていた。
(き、今日こそは……今日こそはちゃんと最後まで、わたしの不遇な人生と、どうしてこんなことをするに至ったのか、その悲痛な動機を伝えるんだから……!)
目出し帽の奥で、大きな瞳が潤み、極度の緊張から喉がカラカラに渇いていた。
彼女──八雲小夜は、物心ついた頃から病的なまでの極度のあがり症であり、対人恐怖症だった。
家族以外の人間を前にすると、声帯が凍りついたように震え、まともな言葉を発することができない。小学校の自己紹介ではプレッシャーのあまり教壇で卒倒し、中学・高校では「一言も喋らない幽霊」として扱われ、高校卒業後は進学の面接でも就職の面接でも、試験官と目が合った瞬間にパニックを起こして逃げ出してしまった。
友人もおらず、社会との接点も持てず、ただ薄暗い自室で針と糸を動かして手作りのパペットを作ることだけが唯一の救いだった彼女は、ついに二十歳の春、自暴自棄の極致に達したのだ。
(こんな社会不適合者のわたしなんて、どうせ誰も理解してくれない……! こうなったら悪名高い通り魔になって、世間にわたしの存在と苦しみを叩きつけてやる……!)
そうして始まった「通り魔」としての夜業。
しかし、根っからの内気で生真面目な小夜は、いきなり背後から人を襲うような無法な真似はどうしてもできなかった。襲うからには、まず相手に「なぜ自分があなたを襲うのか」「いかに自分が孤独で不幸な境遇にあるか」を丁寧に説明し、納得してもらわなければならない──そう固く信じていたのだ。
もちろん、肉声は出せない。だから彼女は、両手のウサギとクマを使った「無言の人形劇」によって、自らの半生を伝えようとしていた。
ちょうどその時、路地の向こうから酔い覚ましのサラリーマンが歩いてきた。
小夜は意を決して物陰から飛び出し、男の目の前へと立ち塞がった。
「うわっ!? な、なんだお前……!」
男が驚いて後ずさる。
小夜は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に抑え、震える両手を胸の前に掲げた。
まず、右手のウサギがぺこりと丁寧にお辞儀をする。続いて、ウサギが自分の目元を両耳で覆い、しくしくと泣くような仕草を見せた。
それから左手のクマが登場し、ウサギに対して意地悪くそっぽを向く。孤立するウサギ。進学の門を表すようにクマが両腕で四角を作り、ウサギがそこへ入ろうとするのを ビシッ! と冷酷に弾き飛ばす。
(ほら、見て……! これが面接で一言も喋れずに落ちた十八歳の春のわたし……! そしてここから、社会という冷たい荒波に放り出される第二幕に入るのよ……!)
小夜は渾身の表現力でパペットを操った。布の擦れる キュッ、キュッ という小さな音だけが夜の路地に響く。
だが、目の前のサラリーマンにしてみれば、深夜に目出し帽の怪人が無言で人形をワチャワチャと動かしているだけの、恐怖以外の何物でもない光景だった。
「ひ、ひぃぃっ! 気色悪い! あっち行け!」
サラリーマンはパニックに陥り、持っていたビジネスバッグを小夜のウサギめがけて思い切り投げつけた。
バッグの角がウサギの鼻先をかすめ、小夜の右手からウサギのパペットが宙を舞い、泥水の中へと ボチャン と音を立てて落ちた。
「…………っ」
瞬間、小夜の周囲の空気が氷点下へと凍りついた。
彼女にとって、人形劇はこの世界で他者と繋がるための唯一無二のコミュニケーション手段であり、魂の叫びそのものだった。それを最後まで見届けることもせず、あろうことか大切なパペットを泥水へ叩き落とすなど、万死に値する愚行である。
ゴォォォォ……!
小夜の華奢な背中から、目に見えるかのような黒い怒りのオーラが噴き上がった。
内気で引っ込み思案な人格がぷつりと途切れ、裏返ったように凶暴なスイッチが入る。彼女は泥水からウサギを拾い上げると、目出し帽の奥の瞳を爛々と光らせ、懐から取り出した愛用の武器──「極太トゲトゲ金棒」を振り上げた。
「う、うわぁぁぁぁっ!?」
ボコォッ! ドガァッ! バゴォッ!
夜の三刀屋に、凄まじい風切り音と鈍い打撃音、そしてサラリーマンの悲鳴が木霊した。
堤防沿いの雑居ビル二階
翌朝。雲南市木次町の斐伊川堤防沿いにある雑居ビルの二階。
『神門探偵事務所』と書かれた古びた真鍮のプレートが掲げられた一室で、所長にして唯一の調査員である神門俊介は、淹れたてのブレンドコーヒーを啜りながら地方紙の朝刊に目を通していた。
「ふむ……またしても『パペット通り魔』の出没か。これで被害者は七人目。いずれも命に別状はないものの、極太トゲトゲ金棒による凄まじい連打で全身打撲と強い精神的ショックを受けている、と」
俊介は黒縁の眼鏡を指先で押し上げ、整った横顔に知的な笑みを浮かべた。
年齢は二十五歳。長身に仕立ての良いツイードのジャケットを羽織り、一見すると都会から来た若き大学教授のような風貌をしているが、その実態は「一度気になった謎は徹夜してでも解き明かさなければ眠れない」という極度の推理中毒者であった。普段は迷い猫の捜索や浮気調査で糊口をしのいでいる彼にとって、この奇妙な通り魔事件は久々に知的好奇心を強く刺激する獲物だった。
俊介はデスクの上に広げた捜査ノートに視線を落とした。そこには、これまでに彼が独自に被害者たちから聞き出した証言がびっしりと書き込まれている。
『最初はただ無言でウサギの人形を動かしてたんです。なんかウサギが泣いたり、クマに突き飛ばされたりして……気味悪くて逃げようとしたら、急にブチ切れて追いかけ回されました』(被害者A・大学生)
『人形でジェスチャーゲームみたいなことをしてました。俺が怖くなって傘で突き飛ばしたら、ものすごい剣幕で金棒を振り回してきて……』(被害者B・会社員)
「実に興味深い。犯人は最初から暴力を振るうことを目的としていない。必ず犯行の前に、ウサギとクマのパペットを用いた『無言の寸劇』を披露しているのだ。そして被害者がその寸劇を拒絶したり、中断させたりした瞬間にのみ、凶暴化して攻撃に転じている」
俊介はペンをくるりと回し、窓の外に広がる長閑な雲南の街並みを見つめた。
「つまり、犯人にとって最重要のミッションは暴行ではなく『人形劇を見せること』にある。彼女は──いや、被害者の証言にある華奢な体格と細やかな人形の動きからして恐らく若い女性だろう──彼女はそのパペットを通して、どうしても誰かに伝えたい切実なメッセージを抱えているのだ。いったい何を語ろうとしているのか……探偵として、これほど心を揺さぶられる謎はないな」
俊介はトレンチコートを翻して立ち上がった。
これまでの出没地点を地図上で結び、犯人の移動速度と逃走経路の癖、さらにはパペットの補修に使われている特殊な手芸用フェルト生地の購入履歴を市内の手芸店から洗い出した俊介は、すでに犯人が今夜現れるであろう「次の舞台」を完全に特定していた。
木次線沿いの古い農機具倉庫
その夜。木次線の線路から少し離れた、今は使われていない古い農機具倉庫の裏手。
月明かりが錆びたトタン屋根を青白く照らし出す中、小夜は今夜も黒い目出し帽を被り、綺麗に洗濯して乾かしたウサギとクマのパペットを両手にはめて佇んでいた。
(きのうも失敗しちゃった……どうして皆、わたしの人形劇を最後まで見てくれないの……? ウサギちゃんの涙の演技、あんなに練習したのに……)
しょんぼりと肩を落とし、ウサギの耳を自分の頬にすり寄せる小夜。
その時、背後の砂利道から ザク、ザク と落ち着いた足音が近づいてきた。
「こんばんは、月夜に舞う孤独な人形師さん。今夜の観客席は、まだ空いているかな?」
「っ!?」
小夜が弾かれたように振り返ると、そこには街灯の光を背に受けた長身の青年──神門俊介が、両手をコートのポケットに入れたまま穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
小夜は警戒して一歩後ずさり、すぐさま懐の金棒に手をかけようとした。だが、俊介は自分が無害であることを示すように両手を軽く挙げ、そのまま近くの古い木箱の上に腰を下ろした。
「怖がることはないし、金棒を抜く必要もない。俺は神門俊介。しがない私立探偵だ。俺は逃げもしないし、君の大切な人形を傷つけたりもしない。ただ、君がこれまで誰にも最後まで見せることができなかったその『物語』を、第一幕から最終幕までじっくりと鑑賞させてもらいたいと思ってね」
俊介の涼やかな声が、静かな夜気に溶けていく。
小夜は目出し帽の奥で目を丸くした。
(え……? み、見てくれるの……? わたしの人形劇を、最後まで……?)
半信半疑のまま、小夜は恐る恐る両手を胸の前に掲げた。
俊介は木箱の上で足を組み、まるで世界最高峰のオペラを観劇する紳士のように、真剣な眼差しを彼女の両手へと向けた。
「さあ、開演してくれたまえ」
その一言に背中を押され、小夜は深く息を吸い込んだ。
そして──月下の無言劇が幕を開けた。
まず、右手のウサギが登場する。ウサギは周囲をキョロキョロと見回し、誰かと話したそうに口をパクパクさせるが、喉を押さえて苦しそうに俯く。
そこへ左手のクマが現れ、ウサギに話しかける。ウサギは全身をガタガタと震わせ、耳で顔を隠して後ずさる。クマはやれやれと肩をすくめて去っていき、ウサギはひとりぼっちで膝を抱えて丸くなった。
(第一幕・幼少期から学生時代にかけての孤立……!)
小夜がチラリと俊介を見ると、俊介は顎に手を当て、深く頷きながら見入っている。
気を良くした小夜は、そのまま第二幕へと突入した。
クマが再び現れ、今度は頭に四角い帽子(面接官の象徴)を乗せる。ウサギが必死にお辞儀をして前に出るが、クマが質問を投げかけた途端、ウサギは硬直してパタリと倒れてしまう。クマがバツ印を作り、ウサギは絶望のあまり天を仰いだ。
そして第三幕。ひとりぼっちのウサギは、自分の手を見つめ、そこに小さな人形(パペットの中のパペットという高度なパントマイム)をはめる仕草をする。誰かに気づいてほしくて夜の街へ繰り出すウサギ。しかし、出会うクマたちは皆、ウサギの話を聞かずに石を投げたり逃げ出したりする。悲しみと怒りに暮れたウサギが、ついに暴れ出す──!
およそ五分間にわたる、渾身のノンバーバル・パフォーマンス。
小夜は肩で息をしながら、ウサギとクマに最後のお辞儀をさせ、固唾を呑んで目の前の青年を見つめた。
パチ、パチ、パチ、パチ……!
静まり返った廃倉庫の裏手に、俊介の惜しみない拍手が響き渡った。
「ブラボー。実に素晴らしい表現力だ。指先の微細な震え、耳の角度による感情の機微、そして重心の移動だけで複数の登場人物を演じ分ける技術……お世辞抜きに一級の芸術だよ」
(ほ、褒められた……!? わたしのパペット劇が、芸術って……!)
目出し帽の下で、小夜の頬がみるみるうちに熱を帯びていく。
さらに俊介は立ち上がり、一歩彼女へと歩み寄ると、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「そして何より、君が伝えたかったメッセージは完璧に読み取れたよ。整理しよう。君は幼い頃から極度の対人緊張、あるいは失声症に近い症状を抱えており、肉声でのコミュニケーションが困難だった。周囲からは誤解され、孤独な学生時代を送ったね? その後、社会に出ようと就職活動や進学の面接に挑んだものの、やはり極度の緊張から言葉を発することができず、不採用の連続。社会から拒絶されたと感じた君は、自分の存在と苦しみを誰かに知ってもらうため、唯一心を許せるハンドパペットを用いて夜な夜な通行人に自らの身の上を語ろうとした。だが、誰も君の劇を最後まで見てはくれず、その絶望が暴発して『通り魔』と呼ばれる結果になってしまった……どうかな? 俺の推理に間違いは?」
「…………っ!!」
小夜は雷に打たれたような衝撃に立ち尽くした。
一言も、ただの一文字も言葉を発していないのに。
これまで親にすらうまく説明できず、誰からも「暗い子」「気味の悪いやつ」と切り捨てられてきた自分の二十年間の苦悩と孤独を、目の前の探偵はたった一度の人形劇を見ただけで、寸分の狂いもなく完全に理解してくれたのだ。
ウサギとクマをはめた両手が、感動でぶるぶると震える。
目出し帽の目の穴から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。右手のウサギが、何度も何度も、首がもげそうなほど激しく縦に頷く。
「はは、泣かないでくれ。俺はただ、君が懸命に紡いだ物語を正しく翻訳しただけさ。それに、そんなにも繊細で優しい心を持った人形師が、本当の意味で凶悪な犯罪者であるはずがないと確信していたからね」
俊介が優しく微笑みかけ、ハンカチを差し出そうとした──まさにその時だった。
『おい、こっちだ! さっきの路地で怪しい人影を見たぞ!』
ピピピピッ! と鋭い警笛の音と共に、懐中電灯の白い光が倉庫の角から伸びてきた。巡回中の警察官と防犯パトロールの自警団だ。
「っ……!」
小夜はハッと我に返り、涙を拭うようにウサギの耳で目元をこすった。
そして俊介に向かって、ウサギとクマを揃えて深々と、それはもう丁寧なお辞儀をすると、驚異的な脚力で倉庫の屋根へと飛び乗り、月夜の闇の中へとあっという間に姿を消してしまった。
「ふっ……身のこなしまで一流とはね。だが、これで彼女との間に確かな対話の窓口は開かれた」
俊介は誰もいなくなった屋根を見上げ、満足げに微笑んだのだった。
路地裏の舞台装置と赤いフェルト
古い商店街のブロック塀
その夜を境に、雲南市から「パペット通り魔」による暴行被害はピタリと止んだ。
代わりに始まったのは、私立探偵・神門俊介ただ一人を観客とした、奇妙で情熱的な「ゲリラ人形劇」の日々であった。
あの夜、生まれて初めて自分を理解し、パペットの演技を褒めてくれた俊介に対し、小夜は一瞬にして恋に落ちていた。
二十年間、誰にも開かれることのなかった心の扉を鮮やかにこじ開けた白馬の王子様(トレンチコートの探偵)。彼に会いたい。もっと自分の人形劇を見てほしい。そして何より、この胸が張り裂けそうなほどの「好き」という気持ちを、どうにかしてパペットで伝えたい──!
だが、ここで小夜の「病的なまでの内気さ」と「凝り性すぎる職人魂」が、思わぬ方向へと暴走を始めることになる。
翌日、俊介が調査の帰りに大東町の古い商店街を歩いていた時のことだ。
ふと路地裏の隙間から ヒョコッ とピンク色のウサギの耳が覗き、手招きをした。
俊介が苦笑しながら路地裏へ入ると、そこにはお馴染みの黒い目出し帽を被った小夜が、モジモジと内股で立ちながら待ち構えていた。
「やあ、また会ったね。警察の目はもう大丈夫なのかい?」
俊介が声をかけると、小夜は目出し帽越しでも羞恥が伝わるほど身を縮めて俯き、やがて意を決したように両手を掲げた。
ただし、今日のパペットはいつものウサギとクマだけではなかった。彼女は背中のリュックから手作りの小道具を次々と取り出し、路地のブロック塀の上に精巧なミニチュアの背景セットを組み上げたのである。
「ほほう、今日はずいぶんと大掛かりな舞台装置だな。どれ、拝見しよう」
俊介が腕を組んで観察を始めると、小夜の指先が華麗に舞った。
ウサギのパペットが、胸の前で赤いフェルトで作られた「ハート型の何か」を大事そうに抱えている。ウサギはその赤い塊を、クマのパペット(なぜか黒縁のミニチュア眼鏡をかけている)の足元にそっと置き、恥ずかしそうに両耳で顔を隠して逃げていく。
すると次の瞬間、その赤い塊が ボフッ! と大きく膨らむようなパントマイムが演じられ、眼鏡のクマが胸を押さえて仰向けにひっくり返ったのだ。
(ど、どうかしら……! 『わたしの張り裂けそうな恋心(ハート)をあなた(眼鏡のクマ)に届けたら、あなたも胸がドキドキして倒れちゃうくらい夢中になるはず』という、ちょっと大胆でロマンチックな愛の告白劇よ……! ああっ、直接的すぎて気づかれちゃうかも、恥ずかしいっ……!)
小夜は羞恥のあまり全身をくねくねと悶えさせながら、俊介の反応を待った。
しかし、天下の名探偵・神門俊介の頭脳は、この遠回しで抽象的な演出をまったく別の次元へと飛躍させていた。
「……なるほど。そういうことか」
俊介の表情が、かつてないほど厳しく引き締まった。
「ハート型……いや、赤い球体状の物体を設置して逃走し、直後にそれが膨張して対象を昏倒させる。つまりあれは『時限式の特殊なガス爆弾、あるいは閃光弾』の暗喩だな!? しかも眼鏡をかけたクマは、間違いなくこの俺を表している! 昨夜、俺に正体の一端を見破られたことで、君は俺を最大の好敵手(ライバル)と認め、次は俺を標的とした一大トリックを仕掛けるという『挑戦状』を叩きつけに来たというわけか!」
(ええええええええっ!? なんでそうなるのぉぉぉっ!?)
小夜は目出し帽の中で白目を剥きそうになった。
ウサギのパペットが慌てて両手を横に振り、違う違うと必死にアピールするが、すでに推理モードに入った俊介は止まらない。
「いや、隠さなくてもいい。探偵に対して事前の犯行予告を行うとは、なんという怪盗めいた美学だ! いいだろう、その挑戦、神門俊介が受けて立つ! 君がいつ、どこでその赤い特殊兵器を炸裂させようとも、必ずや事前に見破ってみせよう!」
そこへ商店街の店主が通りかかりそうになり、小夜は反論のパントマイムをする間もなく、頭を抱えながら路地の奥へと逃げ去るしかなかった。
夕暮れの河川敷と夜の公園
「つ、伝わってない……わたしの恋心が、テロリストの犯行予告だと思われてる……!」
自室に戻った小夜は、ミシンの前で突っ伏して涙目になっていた。
だが、ここで諦める彼女ではない。言葉が出せないなら、より高度で、より情熱的で、誰が見ても「愛の告白」としか思えない究極の人形劇を作り上げればいいのだ。
それからというもの、雲南市の至るところで、探偵と通り魔による奇妙な逢瀬が繰り返された。
三日後の夕暮れ、加茂町の河川敷。
小夜はウサギのパペットに純白のヴェール(ウェディングドレスの象徴)を被せ、眼鏡のクマと手を取り合って、鐘の音が鳴り響く教会のような門をくぐる寸劇を披露した。最後に白い紙吹雪を散らし、二匹が寄り添うハッピーエンドだ。
(これならどう!? 結婚を前提としたお付き合いの申し込みよ!!)
それを見た俊介は、夕陽を背に眼鏡を光らせて深く頷いた。
「……読めたぞ。白い布を被せたウサギと、俺を模したクマが門をくぐり、上から無数の破片が降り注ぐ……。つまり次の標的は、今週末に市内の教会跡地で開催されるチャリティーイベントだな!? 白い布は変装の暗喩、そして紙吹雪は天井のシャンデリアを落下させるという予告か! くっ、日を追うごとに人形の動きが洗練され、予告のスケールも巧妙になっている……なんという恐るべき宿敵だ!」
(ちがぁぁぁぁうっ!! ただの結婚式よぉぉぉっ!!)
小夜はウサギとクマを両手にはめたまま、河川敷の芝生の上でゴロゴロと転げ回って悶絶した。
さらに三日後の夜、木次駅の近くの公園。
もはや小道具の域を超え、小夜は指先ひとつで十本の糸を操るマリオネット機構を取り入れた超絶技巧のパペット劇を展開した。
ウサギが自分の胸から取り出した赤いリボンを、眼鏡のクマの小指に結びつけようと悪戦苦闘する。風が吹いてリボンが絡まり、それでもウサギは健気にクマへと歩み寄り、最後に二匹を赤いリボンでぐるぐると一つに束ねて抱き合わせるという、涙なしには見られない「運命の赤い糸」の物語である。
「うむむ……なんという指先の魔術だ。もはやシルク・ドゥ・ソレイユの演目を見ているかのような圧倒的クオリティ……!」
俊介は感嘆の息を漏らし、額に汗を浮かべて手帳に猛烈な勢いでメモを取った。
「赤い紐で俺を拘束し、身動きを取れなくした上で心中を図るとは……! しかもリボンが風に絡まる演出は、市内の通信ケーブル網を物理的に切断して警察の応援を遅らせるという高度な戦術を示唆しているのか!? 待てよ、赤い紐……赤川……いや、斐伊川にかかる赤い橋がポイントなのか!?」
(運命の赤い糸だってばぁぁぁぁっ!! なんで通信ケーブルの切断になるのよこの名探偵のバカァァァッ!!)
小夜はあまりにも斜め上すぎる俊介の推理力に、怒りを通り越して涙を流しながら夜の公園を走り去った。
なぜこんなにも伝わらないのか。
理由は明白だった。小夜が恥ずかしさのあまり、ハートを爆弾のように膨らませたり、赤い糸でクマをぐるぐる巻きにしたりと、演出を過剰にドラマチックにしすぎているせいで、ミステリー脳の俊介にはすべてが「劇場型犯罪の暗号」に見えてしまっていたのである。
夜の九時と広場の街灯
チェリヴァホール裏手の広場
そして、二人が出会ってから十日目の夜。
雲南市木次経済文化会館──通称「チェリヴァホール」の裏手にある静かな広場に、俊介は小夜を呼び出していた。正確には、小夜が前日に見せた「ウサギが時計の針を夜の九時に合わせ、ホールを模した箱の前でクマを待つ(=夜九時にチェリヴァホールの裏でデートしましょう)」という人形劇を、俊介が「最終決戦の予告場所」として解読し、待ち構えていたのだ。
夜の九時ちょうど。
街灯の下に現れた小夜は、これまでの集大成とも言える特別な衣装を着せたウサギとクマのパペットを両手に携えていた。
ここ数日、徹夜でパペットの衣装を縫い上げ、どうすればこの鈍感すぎる名探偵に「好き」という二文字が伝わるのかを悩み抜いた結果、彼女の目の下にはうっすらとクマができ、精神は限界の瀬戸際まで追い詰められていた。右手のウサギのお腹には、最後の切り札として「すき」と刺繍した赤いハート型のクッションがふっくらと仕込まれている。
(今日で決める……! 今日こそ、わたしの愛の告白を絶対に理解させるんだから……!)
小夜が構えると、向かい合った俊介がいつになく厳粛な面持ちで口を開いた。
「待ってくれ、誇り高き人形師よ。今夜、君が新しい劇を始める前に──これまでの全四回にわたる君の『壮大な犯行予告パペット劇』のすべてを統合し、俺が導き出した最終推理を聞いてほしい」
小夜のウサギが ピョコン と耳を揺らし、首を傾げた。
(えっ? やだ、まさか……昨日の劇で、ついにわたしの気持ちに気づいたの!?)
小夜の胸がトクンと高鳴る。目出し帽の奥で期待に瞳を輝かせる彼女の前で、俊介はビシッと人差し指を突きつけた。
「第一の劇で示された『赤い球体兵器』。第二の劇の『白い布と落下する破片』。第三の劇の『赤いケーブルによる拘束と分断』。そして第四の劇となる昨日の『夜九時のチェリヴァホール』! これらすべての暗号を雲南市の都市構造と照らし合わせた結果、ついに君の真の計画が浮かび上がった!」
俊介は深呼吸をし、広場中に響き渡るような朗々たる声で宣言した。
「君の最終目的は──今夜九時、雲南市内の地下水道網に張り巡らせた赤い導火線(ケーブル)を一斉に起動し、ここチェリヴァホールを中心とした半径二キロメートルの街区に『無数の紙吹雪を詰めた赤い超巨大風船爆弾』を連鎖炸裂させ、街全体を白い紙吹雪で埋め尽くすという、前代未聞の芸術テロ計画だ!! そして爆弾の起爆スイッチは、今まさに君が右手のウサギのお腹の中に隠している赤いハート型の装置に違いない!! さあ、観念してそのスイッチを俺に渡すんだ!!」
「……………………」
春の夜風が、広場を ヒュウウウ と吹き抜けた。
一秒。二秒。三秒。
小夜の両手にはめられたウサギとクマが、わなわなと小刻みに震え始めた。
(……は? なにそれ? 超巨大風船爆弾? 地下水道網に赤い導火線? わたしが毎晩、指に針を刺しながら一生懸命縫った愛のウサギちゃんのお腹に、起爆スイッチが入ってるですって……?)
小夜の頭の中で、二十年間張り詰めていた「内気という名の理性の糸」が、 プッツン!! と凄まじい音を立てて千切れた。
もはやパペットを動かしている場合ではなかった。
こんな斜め上すぎるトンデモ推理をドヤ顔で披露する男に、繊細なパントマイムなど百年続けても通じるはずがない。
羞恥心も、対人恐怖症も、あがり症も、すべてが「あまりの伝わらなさに対する極限の焦燥と怒り」によって一気に蒸発した。
「っ……う、うぅぅぅ……っ!!」
小夜は両手のウサギとクマを地面に放り出すと、自分の頭を覆っていた黒い目出し帽の両端を掴み、 バサァッ!! と力任せに脱ぎ捨てた。
月明かりの下にさらけ出されたのは、夜風になびく艶やかな黒髪と、雪のように白く透き通った肌、そして涙で潤んだ大きな瞳を持つ、息を呑むような絶世の美少女の素顔だった。
その頬はリンゴのように真っ赤に染まり、桜色の唇がわなわなと震えている。
俊介が言葉を失い、呆然と目を見開く前で、八雲小夜は両手で自分の顔を覆いながら、二十年の人生で初めて、誰かの前で腹の底から自分の地声を張り上げた。
「ち、ちがうっ……!! 爆弾なんかじゃ、ないもんっ……!! わ、わたしはただっ……あなたのことが、す、すき、なのおぉぉぉぉっ!!」
鈴を転がしたような、それでいて魂を振り絞るような可憐な絶叫が、夜の雲南市にこだました。
「……えっ」
俊介の思考が、生まれて初めて完全にフリーズした。
「すき……? えっ、俺のことが……? じゃあ、あの赤いハートは爆弾ではなく……文字通りのハートで……白いヴェールは変装ではなく、ウェディングドレスで……?」
俊介が指折り数えながら呟いた、その瞬間。
小夜は自分が「覆面を脱いで素顔を晒した」上に、「大声で愛の告白を叫んでしまった」という事実を遅れて認識した。
(あ……あわわわ……わたし、いま、喋っちゃった……!? 顔も見られちゃった……!? すきって言っちゃった……!?)
頭のてっぺんから プシューッ! と音を立てて湯気が噴き出しそうなほど顔面が沸騰し、小夜の瞳がくるくると回ったかと思うと、そのまま糸の切れたマリオネットのようにふらりと前のめりに傾き、見事に気絶してしまった。
「お、おいっ!? しっかりしろ、人形師さん!!」
俊介は慌てて駆け寄り、地面に倒れる寸前の華奢な体を間一髪で抱き留めたのだった。
アンティーク照明と革張りのソファ
どれくらいの時間が経っただろうか。
小夜がうっすらと瞼を開けると、視界に入ったのは見慣れない木目の天井と、温かみのあるアンティーク調の照明だった。
鼻腔をくすぐるのは、香ばしい珈琲の香り。
(え……ここ、どこ……?)
小夜がゆっくりと上半身を起こすと、自分の体に清潔な毛布がかけられており、革張りのソファの上に寝かされていることに気づいた。
そしてすぐ隣のデスクには、眼鏡をかけた神門俊介が座っており、湯気の立つマグカップを手にこちらを見つめていた。
「ああ、目が覚めたかい」
「ひゃあっ!?」
小夜は悲鳴を上げて飛び起きると、反射的に自分の顔を手で触った。
ない。命の次に大切な黒い目出し帽が、どこにもない。しかも、さっきチェリヴァホールの裏で「すきなのぉぉ!」と絶叫した記憶が鮮明にフラッシュバックし、小夜はパニックのあまり再び声帯が完全にロックされてしまった。
「……っ、……っ!!」
パクパクと口を開閉させるだけで、音が出ない。
小夜は頭から毛布をすっぽりと被り、ミノムシのような状態になってソファの隅で ガタガタガタガタ と猛烈に震え始めた。
そんな彼女の様子を見て、俊介はふっと優しく目を細めると、温かいミルク入りの珈琲が入ったマグカップをローテーブルの上に置き、デスクの上から綺麗に埃を払った「ウサギ」と「クマ」のパペットを取り上げて毛布の隙間へとそっと差し出した。
「落ち着いてくれ。ここは俺の事務所だ。警察には連絡していないし、君の大切な相棒たちも無事だよ」
毛布の隙間から、白い華奢な手が シュバッ と伸びてウサギとクマをひったくるように回収した。
数秒後、毛布の中から右手のウサギだけがひょっこりと顔を出した。ウサギは両耳で顔を隠しながら、恥ずかしそうにモジモジと体を揺らしている。
それを見た俊介は、先ほどまでの動揺をすっかり隠蔽し、いつもの知的でクールな名探偵の表情を作ってコホンと咳払いをした。
そして、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、渾身のドヤ顔で語り始めた。
「ふむ。君のこれまでの全四回にわたる精巧な人形劇、そして先ほどチェリヴァホールで観測された決定的な『音声証言』……すべてのピースが俺の頭脳の中で完璧に噛み合ったよ」
毛布の中のウサギが、ピクリと耳を立てて俊介を見る。
俊介は胸元に手を当て、まるで難事件の真相を暴き立てたかのような厳かな口調で言った。
「つまりこういうことだな。君という稀代の人形師が仕掛けた一連の犯行予告──その最終標的は雲南市のインフラなどではなく、最初から『この俺のハート』ただ一つだったというわけだ。……どうだい? 神門俊介の推理に、今度こそ間違いはないだろう?」
(な、なにその最初から全部わかってましたみたいな顔はぁぁぁっ!! さっきまで超巨大風船爆弾とか言ってたじゃないのぉぉぉっ!!)
毛布の中から左手のクマが飛び出し、俊介の手首を ポカポカポカッ と抗議するように軽く叩いた。
だが、それに続く俊介の言葉に、クマの手がピタリと止まった。
「……すまない。冗談だよ。人の心の機微を読み解くことにかけては自負があったのだが、まさかこれほどまっすぐで可愛らしい好意を向けられているとは夢にも思わず、探偵としてすっかり迷宮に迷い込んでしまっていた。俺の完敗だ」
俊介は少しだけ照れたように頬を掻き、毛布の塊に向かって真っ直ぐに頭を下げると、右手をそっと差し出した。
「俺のハートを盗んだ罪は重いぞ、名もなき人形師さん。つきましては、警察に突き出す代わりに、この神門探偵事務所の『専属助手』として、俺のそばで一生その罪を償ってもらいたい。君のその素晴らしい観察眼と手先の器用さ、そして何より……君自身のことが、俺ももっと知りたいんだ。どうかな、この司法取引に応じてはくれないか?」
毛布の中で、小夜の息が止まった。
ゆっくりと毛布がめくられ、真っ赤に染まった小夜の美しい素顔が半分だけ覗く。
言葉はやっぱり出てこない。けれど、彼女の右手にはめられたウサギのパペットが、涙を拭う仕草をしたあと、俊介の差し出した手に自分の小さな布の手をそっと重ね、何度も、何度も縦に頷いた。
春の日差しと二つのマグカップ
それから一ヶ月後。
雲南市を騒がせた「パペット通り魔」の噂はすっかり過去の都市伝説となり、代わりに木次町の『神門探偵事務所』には、少し変わった、しかし驚くほど有能な「美人の助手」が入ったという評判が広まっていた。
春の柔らかな日差しが差し込む事務所内。
小夜は今、目出し帽を被ることなく、清潔なエプロンドレス姿で二人分の珈琲を淹れ終え、湯気の立つ二つのマグカップをデスクに並べたところだった。作業を終えた彼女の両手には、すぐさま改良型のウサギとクマのパペットが装着される。今も意思疎通の九割は人形劇で行われているのだ。
「さて、小夜。今日の午後からの依頼についてなんだが──」
俊介が問いかけると、もちろん小夜は肉声では答えない。代わりに右手のウサギが、デスクの俊介に向かってパントマイムを開始した。
ウサギが自分の頭の上に犬のような耳を作り、次にしっぽを振る仕草をして、窓の外を指差してしくしくと泣いたあと、最後に足元をトントンと叩いて歩く仕草をする。
(『午後からは、三刀屋のお婆ちゃんの飼い犬(柴犬)の捜索依頼があるから、歩きやすい靴で行きましょうね』って言ってるのよ。もう付き合って一ヶ月なんだから、これくらいすぐ分かるわよね♪)
小夜がニコニコと微笑みながら見守る中、俊介は真剣な眼差しでウサギの動きを観察し、やがてハッと目を見開いて立ち上がった。
「……わかったぞ、小夜! 頭上の突起、背後に揺れる導火線、そして窓の外を見て涙を流したあとに足元を叩く仕草……つまり午後からの依頼人は、裏社会の国際的シンジケートから逃れてきた爆弾魔であり、外の道路に地雷が仕掛けられているから防護靴を履いていけという警告だな!?」
「…………」
小夜の笑顔が凍りついた。
次の瞬間、小夜の左手のクマが、エプロンのポケットから取り出した「恋人専用の軽量版トゲトゲ金棒」を素早く握りしめ、名探偵の頭頂部めがけて愛のツッコミを振り下ろした。
ポコンッ!!
「いたっ!? な、なぜだ小夜!? 今の導火線のパントマイムは完璧に爆弾魔の暗喩だったはずでは──」
抗議する俊介の前で、ウサギがぷいっとそっぽを向き、クマが「ワン、ワン」と犬のポーズを繰り返す。
相変わらず、名探偵が彼女の「パペット語」を百パーセント正しく翻訳できるようになるまでには、まだしばらく時間がかかりそうであった。
それでも、小夜が淹れた珈琲を二人で並んで飲む春の昼下がりは、どんな劇のフィナーレよりも温かく、穏やかな幸福に満ちていたのだった。
