佐味田川の霧と深夜二時の寝室
睡眠とは、魂が肉体という檻から一時的に解放される無防備な時間である。古来、奈良盆地の西縁、馬見丘陵の裾野に広がるこの土地では、川霧の深い夜に「夢喰い」が訪れるという伝承が密かに語り継がれてきた。眠りの中で首を落とされた者は、二度と朝の光を拝むことはない──。
奈良県北葛城郡河合町。
大和川と佐味田川が合流する北部の低地から、南の緩やかな起伏を描く丘陵地帯へと続く住宅街は、午前二時を回ると墓底のような静寂に包まれる。近鉄田原本線の池部駅を過ぎる終電の走行音もとっくに途絶え、昭和の終わり頃に開発されたニュータウンの街灯だけが、冷え切ったアスファルトの上に白い光を長く伸ばしていた。
その一角、緩やかな坂道の途中に建つ築十五年の賃貸アパート「メゾン・ド・馬見」の二〇二号室。
固く閉ざされた二重サッシの窓ガラスを、黒いタールのような霧の塊が音もなくすり抜けた。
シュウウウ……ゴポ、ゴポ……
粘り気のある不気味な呼吸音とともに室内の暗がりへ実体化したのは、人の形を辛うじて保った異形の怪人──夢魔の骸斬であった。
その身長は二メートル優に超え、天井のシーリングライトに頭頂部の角が触れそうになっている。全身は乾いた古木の樹皮、あるいは甲虫のキチン質を思わせる紫黒色の外骨格に覆われており、両腕の先端は鋭利な大鎌のように湾曲して鈍い銀光を放っていた。さらに顔面には、蜘蛛のそれを思わせる紅い発光器官が六つ、暗闇の中で不規則に明滅している。
(ふむ……今宵の獲物はここか。河合町の夜気は川からの湿気が適度に混じり、実に霊体の浸透に都合がいい)
骸斬は六つの紅い複眼を細め、部屋の隅に置かれたシングルベッドを見下ろした。
分厚い毛布にくるまり、時折うわ言を漏らしながら浅い眠りについている小柄な人影がある。
標的の名は葛城凛、二十六歳。都心に本社を置く中堅ITシステム開発企業に勤務しながら、この静かな奈良の郊外でフルリモート勤務をしているバックエンドエンジニアである。
なぜ彼女が百戦錬磨の夢魔である骸斬の標的になったのかといえば、理由は極めて単純だった。
ここ二週間ほど、この二〇二号室からは、半径数キロ圏内に棲息する妖魔や怪異が思わず振り返るほど濃厚で芳醇な「絶望と焦燥と恐怖の精神波長」が、毎晩のようにダダ漏れになっていたのである。
悪夢を主食とし、恐怖によって極限まで熟成された人間の魂を刈り取ることを生業とする骸斬にとって、これほど極上のフルコースを見逃す手はなかった。
(これほどの澱んだ波長を放つからには、よほど恐ろしいトラウマや怨恨に苛まれているに違いない。どれ、まずは夢の表層へと潜り込み、可憐な悲鳴を上げさせてやるとしよう)
骸斬は鎌状の右腕をゆっくりと振り上げ、凛の眉間から立ち昇る淡い青白い精神波長へと、鋭い爪先を突き立てた。
ズブゥッ……!
空間が黒い泥水のように渦を巻いて歪み、骸斬の意識はそのまま標的の深層心理──悪夢の世界へと急速に沈降していった。
炎上するサーバーラックの回廊
意識が夢の階層で再構成された瞬間、骸斬の鋭敏な嗅覚を突いたのは、うら若き乙女の甘い夢の香りではなく、焼けたシリコン基板と焦げたビニール被覆が混ざり合った、むせ返るような工業系の悪臭だった。
「……む? なんだここは」
骸斬は思わず一歩退き、周囲を見回した。
そこは、どこまでも無限に続くかのような巨大な地下データセンターの回廊だった。天井には無数の赤い回転灯が設置され、血のような不吉な光を絶え間なく投げかけている。左右には身の丈を超える黒いサーバーラックが巨大な墓標のように整然と並び、その至る所から不穏な火花と黒煙が噴き出していた。
そして何より、あらゆる方角から鼓膜を突き刺すような警報音が鳴り響いていた。
ピヨピヨピヨ! ブォーッ! ブォーッ!
『警告。本番環境マスターデータベースの応答が停止しました。システム全体の自動ロールバックに失敗しています。サービスインまでの残り猶予時間、マイナス四百二十秒』
無機質な女性の合成音声が、天井のスピーカーから冷酷に反響する。ラックの隙間からは赤い文字でびっしりと印字されたエラーログの紙束が吹雪のように噴き出し、床の上を埋め尽くしていた。
(なんという殺伐とした精神世界だ……。普通、二十代の娘の悪夢といえば、暗い森の中で化け物に追いかけられるとか、歯が全部抜け落ちるとか、高い塔から突き落とされるとか、もっと古典的で情緒があるものだろうに)
戸惑う骸斬の視線の先、黒煙が渦巻く回廊の中央に、ひときわ激しくスパークを散らすコンソールデスクがあった。
そこに置かれたオフィスチェアに浅く腰掛け、灰色のスウェット上下という部屋着姿の女──凛が、目にも留まらぬ猛烈な速度でキーボードを叩き続けていた。
カタカタカタカタカタッ! ッターン!!
その打鍵音はもはや事務作業の領域を超え、重機関銃の掃射か、あるいは工事現場の削岩機に近い暴力的な響きを持っていた。
骸斬は小さく咳払いをして、恐怖の怪人としての威厳ある演出を整えた。背後の黒い影を翼のように大きく広げ、六つの紅い眼を爛々と輝かせながら、地底から響くような重低音で背後から語りかける。
「ククク……お嬢さん、いい夜だな。だがお前の明日は永遠に来ない。なぜなら、夢を喰らう怪人であるこの俺が──」
「うるっせえなあああ!! 今まさに本番リリース前の最終データベースマイグレーションがコケてんだよ! 後ろから変なエコーかけて話しかけんなボケェ!!」
「……えっ」
バッと振り返った凛の顔を見た瞬間、数百年のキャリアを誇る夢魔・骸斬の思考が完全にフリーズした。
彼女の双眸は、骸斬が誇る六つの紅い発光器官よりも、はるかに鮮烈な深紅に血走っていたのである。
目の下には徹夜続きを物語る鉛色の濃いクマが幾重にも刻まれ、ボサボサに逆立った黒髪の隙間からは、鬼気迫る殺気と高濃度カフェイン中毒特有の異様なオーラが、青白い陽炎のように立ち昇っていた。
「お前か!? お前が勝手にステージング環境の環境変数を書き換えたんか!? それともインフラ担当の佐藤か!? なんで昨日まで通ってたテストが本番直前のリハーサルで全部外部キー制約エラーになるんだよ! 答えろ!!」
「い、いや、俺は夢の中に忍び込んで獲物を殺す異形の怪人であって、断じて佐藤ではないし、環境変数とやらも知らん……」
「佐藤じゃないなら邪魔すんな! 今すぐその無駄にデカい図体をそこからどけ! 視界の端に黒いノイズが入るとタイピング速度が三パーセント落ちるだろうが!!」
「待て小娘! 少しは怪人としての俺の話を聞け! これより貴様の魂を八つ裂きにして──」
プライドを傷つけられた骸斬が、威嚇のために右腕の巨大な鎌を振りかざした、まさにその刹那だった。
椅子に座っていたはずの凛の姿が、残像を残して視界から消えた。
(なっ……!? 消えた!? いや、低い!)
骸斬が六つの複眼の動体視力をフル稼働させて捉えたのは、床を蹴って音もなく懐へと潜り込んできた凛の、驚くほど低く鋭いタックル姿勢だった。
実はこの葛城凛、大学時代は関西学生総合格闘技選手権の女子軽量級において、圧倒的なフィジカルと寝技の極めでベスト4に名を連ねたゴリゴリの武闘派だったのである。
就職してからはデスクワーク中心の生活となり運動不足を嘆いていたものの、極限のストレス状態にある夢の世界では、肉体的な疲労というリミッターが外れ、かつて鍛え上げた格闘技の筋肉記憶が百二十パーセントの出力で完全再現されていた。
「人の作業中に鎌なんか振り回してんじゃねえぞコラァッ!!」
ドゴォッ!!
タックルと見せかけたフェイントから、体重を乗せた凛の鋭い右オーバーハンドフックが、骸斬の顎──に相当する下部外骨格に寸分の狂いもなくクリーンヒットした。
分厚い鉄板をハンマーで撃ち抜いたような衝撃音がデータセンターに響き渡り、二メートルを超える骸斬の巨体が、まるで面白いように宙を舞って床に叩きつけられた。
「グギャアアアッ!?」
「まだだ! サイドポジションからマウント奪取! そしてパウンド連打ァ!!」
「ま、待て! 俺は実体を持たぬ悪魔だぞ! 人間の物理攻撃で怯むはずが──ベキッ! ボコォッ! メキョッ! い、痛い! なぜだ!? なんで夢の中でこんなに拳が重いんだお前は!!」
「うるさい! こっちは明日の朝九時に新決済システムのサービスインなんだよ! クライアントの常務と監査法人が立会いに来るんだよ! このバグが朝までに直らなかったら、私の三連休と箱根温泉旅行が完全に消滅すんの! お前の中学生が考えたような設定と私の有給休暇、どっちが重いと思ってんだコラァ!!」
パウンドの嵐から逃れようと、骸斬は必死の思いでうつぶせに反転し、這いずって距離を取ろうとした。
だが、背中を見せたことは、元総合格闘家に対して最悪の悪手であった。
「バックマウント、いただきましたァ!」
凛のしなやかな両脚が骸斬の胴体にガッチリと四の字フックで絡みつき、同時に彼女の細い腕が、怪人の太い首筋へと大蛇のように巻きついた。
総合格闘技における究極の絞め技、リアネイキッドチョーク──通称チョークスリーパーである。左腕の橈骨が喉元の気道と頸動脈を正確に圧迫し、右手が自身の二の腕を掴んで後頭部に添えられ、万力のように締め上げていく。
「ギ、ギギギ……! く、苦しい! 馬鹿な、夢魔に呼吸器官など存在しないはずなのに、精神体のコアが直接締め上げられて……オ、落ちる! 悪魔の意識が落ちるぅぅ!!」
視界がチカチカと明滅し、本気で三途の川──あるいは魔界の底が見えかけた骸斬は、生き残るための本能に従い、鎌状の右腕で床のタイルを必死に三回叩いた。
タップ! タップ! タップ!
その乾いた音を聞いた瞬間、凛に染み付いたスポーツマンシップの条件反射が働き、スッと腕のロックが解かれた。
「……チッ、開始三十秒でタップアウトかよ。根性なしのくせに、深夜に人の夢へ不法侵入してんじゃねえよ」
凛は荒い息を吐きながら立ち上がり、スウェットの袖で額の汗を乱暴に拭った。床に突っ伏してゼエゼエと紫色の霧を吐き出している異形の怪人を見下ろし、仁王立ちのまま冷酷に言い放つ。
「おい、そこのトゲトゲ」
「……む、骸斬という、魔界でも由緒ある立派な名が……」
「名前なんかどうでもいい。お前、今の乱闘で私の貴重なデバッグ時間を三分間も奪ったな。その分の損害は労働力できっちり賠償してもらうぞ。そこのサブモニターの前に正座して、エラーログの標準出力を一行残らず監視しろ! 赤い文字かスタックトレースが出たら即座に報告! いいな!?」
「……は、はい。承知いたしました」
こうして、河合町の深夜を恐怖で統べるはずだった誇り高き夢魔は、コンソールデスクの脇で縮こまりながら正座でログ画面を睨みつける、無給のデバッグ助手に任命されたのであった。
増殖する警告窓とシロクマの罠
「よし、まずはトランザクション分離レベルの設定ファイルを修正して、コンテナの再ビルドをかける……っと」
凛は再び椅子に座り直し、エンターキーを強く叩いた。
正面に浮かぶ巨大なメインモニターに、処理状況を示す緑色の文字列が高速で流れていく。[処理中] データベース接続を確認しています……失敗:接続先ホストが奈良時代の平城京・大極殿に転送されました
「はあああ!? なにその意味不明なエラーメッセージ! なんで通信プロトコルが律令制になってんのよ!? TCP/IPどこ行った!?」
「お、おい小娘、こっちのサブモニターにも赤い文字が出たぞ!」
正座していた骸斬が、真面目に鎌の先で画面を指差して報告する。[警告] 広瀬大社の砂かけ祭がサーバー内部で開始されました。メモリ領域がすべて川砂で埋め尽くされています
「ちょっと待ってよ! なんで地元の伝統行事がカーネル空間で暴れてるのよ!?」
凛が頭を抱えて叫んだ瞬間、彼女の背後にあるサーバーラックが突如としてミシミシと音を立てて膨張し、巨大な木造の千手観音像へと変形した。そして、四十本の黄金の腕が一斉に伸び、稼働中のLANケーブルと光ファイバーを次々と引き抜き始めたではないか。
ブチィッ! ブチブチブチィッ!!
「あああっ! やめろ仏像! 本番稼働中の冗長化ケーブルを物理で抜くんじゃない! しかもなんだこれ、手元のキーボードのキートップが全部『鹿せんべい』に変わったんだけど! タイピングするたびにパリパリ割れて、隙間にきな粉みたいな粉が詰まるううう!!」
パニックに陥った凛が、割れ続ける鹿せんべいキーボードを必死に連打すると、今度は天井のダクトから大量の「仕様変更指示書」と「障害報告書」の束がナイアガラの滝のように降り注ぎ、彼女の足元から腰の高さまでをあっという間に埋め尽くしていく。
さらに周囲の空間には、どこからともなく複数の電話のベルが鳴り響き、クライアントや上司の幻聴が多重再生され始めた。
『葛城さん、やっぱり決済通貨に和同開珎も追加で対応してもらえるかな? 明日の朝までに』
『おい葛城! テストケースが八万件追加になったぞ! エビデンスは全部スクリーンショットをエクセルに貼って提出しろ!』
「やめてえええ! これ以上エラーを増やさないで! 仕様変更も来るな! とにかくシステムだけは絶対に落ちるな、爆発するな、爆発するな、絶対に爆発だけはするなあああ!!」
凛が涙目でそう叫んだ瞬間、メインモニターの液晶表示が決定的な死の宣告を映し出した。[致命的エラー] 担当エンジニアのメンタルが限界値を突破しました。これよりデータセンター全体を自爆させます
ドゴオオオオオン!!
回廊の奥から、本当に巨大な紅蓮の火球が膨れ上がり、灼熱の爆風が紙吹雪とサーバーの破片を巻き上げながら凛へと襲いかかった。
「きゃあああああっ!」
思わず顔を覆ってうずくまった凛の襟首を、背後から伸びてきた骸斬の長い腕がガッと掴み、そのまま自分の方へと強く引き寄せた。
直後、骸斬は自らの頑丈な紫黒色の外骨格と両腕の大鎌を傘のように広げ、凛の小さな身体をすっぽりと包み込んで爆風と破片を弾き返した。
ガガガガガッ……!
熱風が通り過ぎた後、骸斬は腕の中で目を白黒させている凛をゆっくりと床に下ろし、呆れたような深いため息をついた。先ほど凛の右フックで殴られた顎の外骨格を軽くさすりながら、彼は数百年生き続けてきた「夢の専門家」としての知見を、静かに語り始めた。
「……おい、小娘。いい加減に少し落ち着け」
「お、落ち着けるわけないでしょ! 見てよこの大惨事! 私が必死にコマンドを叩いて対処すればするほど、一秒ごとに新しいトラブルが湧いて出るのよ!」
「当たり前だ。ここは現実のオフィスでもなければ、クラウドのデータセンターでもない。お前自身の脳が作り出した『夢の中』なのだからな」
「夢の中……? あ、そういえばさっき、あんたが夢を喰らう怪人とか言ってたような……」
ようやく少しだけ冷静さを取り戻した凛に向かって、骸斬は六つの紅い眼を細め、講義をする教授のように指を一本立てた。
「いいか、よく聞け。人間の脳というのは、睡眠中──とりわけ悪夢を見やすいレム睡眠の最中において、恐怖や不安といった情動を司る『扁桃体』が覚醒時以上に過剰活性化する。その一方で、論理的思考や理性的な判断を司る『背外側前頭前野』の働きは極端に低下する構造になっているのだ」
「……はあ? なによ急に、怪人のくせに脳科学者みたいなこと言い出して」
「黙って聞け、これが人間の夢というシステムの基本アーキテクチャだ」
骸斬は鎌の先端で、まだ奥の方でLANケーブルを振り回している千手観音像と、粉々になった鹿せんべいキーボードを指し示した。
「進化心理学における『脅威シミュレーション理論』によれば、そもそも悪夢とは、人間が現実世界の危機に備えて脳内で最悪の事態を予行演習するための防衛機構だ。だが、前頭前野が休眠しているせいで、今のお前は『データセンターに千手観音が出るわけがない』『通信先が平城京になるはずがない』という論理的なエラーチェックができず、脳が勝手に生成した荒唐無稽なバグをすべて現実の脅威として真正面から受け止めてしまっている」
「うっ……言われてみれば、なんで私、大真面目に鹿せんべいをタイピングしてたんだろう……」
「さらに致命的なのが、心理学者ダニエル・ウェグナーが提唱した『皮肉過程理論』──通称、シロクマ効果だ」
「シロクマ効果……?」
「『白い熊のことだけは絶対に考えるな』と命じられると、人間の脳はかえって白い熊のイメージが頭から離れなくなる現象のことだ。人間の思考には、望む状態へ意識を向ける『実行過程』と、考えてはいけない思考が紛れ込んでいないか無意識にパトロールする『監視過程』の二つがある。疲労や睡眠によって脳の認知リソースが低下していると、実行過程が機能不全を起こし、監視過程だけが暴走するのだ」
骸斬は凛の顔を覗き込み、諭すように続けた。
「夢の世界とは、お前の脳内メモリに浮かんだイメージが、タイムラグなしでそのまま空間へレンダリングされる仮想環境に近い。つまり、お前がパニックになって『エラーが出るな』『仕様変更が来るな』『絶対に爆発するな』と強く念じれば念じるほど、監視過程が『エラー』『仕様変更』『爆発』というキーワードを全力で検索・参照し、それがそのまま夢のオブジェクトとして即座に実体化されてしまうのだ!」
「なっ……! じゃあ、さっきの自爆エラーも、上司の幻聴も……」
「すべて、お前自身の焦燥感が引き起こした自己生成バグだ。焦るから事態は悪くなるんだ、小娘」
骸斬の六つの紅い眼が、炎上する回廊の中で、不思議と穏やかで知的な光を帯びて凛を見つめた。
「お前は今、自分で自分の悪夢に無限ループの爆弾コードを書き込み、それを自分で実行して悲鳴を上げているに過ぎん。恐怖や焦燥という名の入力値を止めない限り、この精神世界は夜明けまで永遠にクラッシュし続けるぞ」
明晰夢のリファクタリング
怪人の思いがけないほど理路整然とした、しかもエンジニアの心に絶妙に刺さる解説に、凛はぽかんと口を開けて立ち尽くした。
つい数分前までは自分を殺そうとしていた異形の化け物であり、自分がマウントパンチでボコボコにした相手のはずなのに、今の彼はまるで、大炎上しているデスマーチ現場に颯爽と現れた凄腕のシニアアーキテクトのように頼もしく見えた。
「じゃあ……私はどうすればいいの? 『考えるな』と思っても勝手に不安が湧いてきちゃうなら、どうやってもエラーが止まらないじゃない」
「そこで使うのが『明晰夢』のコントロール技法、そして睡眠医学における『イメージ・リハーサル療法』の応用だ」
骸斬は一歩前に出て、凛の小さな肩にそっと大きな手を置いた。
ゴツゴツとした紫黒色の外骨格の手だったが、不思議と不快な冷たさはなく、どこか太陽を浴びた乾いた古木のような、落ち着いたぬくもりがあった。
「まず第一ステップとして、『ここは自分の夢の中である』という事実を明確にメタ認知しろ。お前は今、俺との対話によって論理性を取り戻しつつある。これにより、休眠していた背外側前頭前野が再び稼働し始め、夢の管理者権限を取り戻す準備が整う」
「管理者権限……ルート権限ね。うん、わかった、ここは私の夢の中よ」
凛がそう口にすると、周囲で鳴り響いていた警報音のボリュームが、ふっと半分ほどに下がった。
「いいぞ、その調子だ。次に第二ステップだ。シロクマ効果を回避する唯一の方法は、『起きないでほしいこと』を否定形で考えるのをやめ、まったく別の『すでに完了した具体的で心地よい理想の状態』へと意識のポインタを完全に書き換えることだ。いいか、まずは一度、深く息を吸って吐け」
「し、深呼吸ね……すーっ……はーっ……」
「よし。ではそのまま目をつぶり、お前がこの世で最も安心できる穏やかな風景と、最も美しく整理された理想のシステム環境を思い浮かべろ。ここは河合町だ。休日の昼間、お前が気分転換に散歩するお気に入りの場所があるだろう?」
「散歩する場所……あ、家の近くの馬見丘陵公園とか。あそこの芝生広場と、秋に咲くダリアやコスモスの花畑……それから、広瀬大社の参道の、静かな木漏れ日とか……」
「そうだ、それでいい。その静かで心地よい緑と花の風景を、空間全体の背景としてロードしろ。そしてその真ん中に、すでにすべてのテストをパスし、完璧に正常稼働している一台の美しいコンソールだけを置くのだ。余計な不安オブジェクトや幻聴プロセスは、すべてガーベジコレクションで強制破棄しろ。お前は自分の仕事に誇りを持った優秀なエンジニアだろう? 自分の脳内メモリくらい、自分で綺麗にリファクタリングとやらをしてみせろ」
骸斬の低く落ち着いたバリトンボイスが、凛の鼓膜から心の奥底へと静かに染み渡っていく。
不思議と、ここ数週間ずっとみぞおちの辺りを締め付けていた鉛のような重苦しさと動悸が、すーっと溶けて消えていくのを感じた。
(そっか……私、明日の本番リリースが失敗するのが怖くて、自分で自分を追い詰めてただけなんだ。でも、私はここまでちゃんと準備してきたじゃない。単体テストも結合テストも全部通した。負荷試験もクリアしたし、マイグレーション手順書だって三回も見直した。私はちゃんとやれる)
凛はゆっくりと長い息を吐き出し、閉じていた瞼を静かに開いた。
血走っていた充血は引き、彼女の瞳には本来の澄んだ強い光が戻っていた。
凛は目の前のコンソールデスクに向き直ると、明確な意思を込めた声で宣言した。
「これは私の夢。だから、この世界のルート権限は私にある」
凛が右手の人差し指を伸ばし、そっとエンターキーに触れた。
きな粉まみれだった鹿せんべいの感触は跡形もなく消え去り、日頃から愛用している静電容量無接点方式キーボードの「スコッ」という極上の打鍵感が、確かに指先へと返ってきた。
シュワアアアア……
次の瞬間、地下データセンターを埋め尽くしていた黒煙と紅蓮の炎が、朝の川霧が太陽に照らされて晴れるように、スッと光の粒子となって消え去った。
暴れていた木造の千手観音像は、秋風に揺れる満開のダリアとコスモスの花畑へと姿を変え、耳を劈いていた警報音と上司の幻聴は、爽やかな小鳥のさえずりと木々の葉擦れの音に置き換わった。
どこまでも広がる青空の下、馬見丘陵公園さながらの緑の芝生の上に置かれた一台のモニターには、目に優しい緑色の文字で、たった一行だけこう表示されていた。[完了] すべての本番デプロイが正常に終了しました。システム稼働率 100.0%
「……消えた。エラーが、ぜんぶ消えた……!」
凛は自分の両手を見つめ、それから周囲に広がる色鮮やかな花畑と澄み切った青空をぐるりと見回した。
脳の芯まで絡みついていた疲労感と恐怖心が綺麗に洗い流され、代わりに湯上がりのような心地よい解放感が全身を満たしていく。
「やった……やったわ! ありがとう、トゲトゲ! あんたのおかげよ!!」
感極まった凛は、すぐ隣で腕を組んで頷いていた骸斬に向かって思い切り飛びつき、その首元に両腕を回してギュッと抱きついた。
花畑の怪人と鼓動のバグ
「ファッ!?」
突如として胸元に飛び込んできた、柔らかく温かい人間の質量。
骸斬の六つの複眼が、これまで見たこともないほど限界までカッと見開かれた。
つい十分前には、同じ首筋に殺意満点のチョークスリーパーを極めて彼を窒息寸前まで追い込んだ細い両腕が、今は百パーセントの親愛と感謝を込めて、彼のゴツゴツした外骨格を優しく抱きしめている。
「すごいよあんた! 悪夢の仕様と脳科学にめちゃくちゃ詳しいだけじゃなくて、エンジニアのメンタルケアまで完璧じゃない! うちの無能なプロジェクトマネージャーと今すぐ交代してほしいくらいだわ!」
凛が胸元からパッと顔を上げ、憑き物が落ちたような満面の笑顔を向ける。
徹夜明けの険しいクマが消え去った彼女の素顔は、二十六歳の女性らしい瑞々しい愛嬌にあふれていた。大きな瞳がキラキラと輝き、スウェットの襟元からはお風呂上がりのシャンプーのほのかなフローラルな香りまでふわりと漂ってくる。
(な、な、なんだこの異常事態は!? 俺は闇に生きる恐怖の夢魔だぞ!? これまで何百人もの夢に忍び込んできたが、獲物に泣き叫んで命乞いをされることはあっても、こんなふうに笑顔で抱きつかれて感謝されるなど、魔界の歴史データベースに前例がないぞ!!)
骸斬の紫黒色の外骨格が、首元から頭頂部の角にかけて、みるみるうちに茹で上がったタコのように真っ赤に染まっていく。
ドクン! ドクン! ドクン!
本来、肉体を持たない精神体である夢魔には存在しないはずの心臓の鼓動が、周囲のコスモス畑にまで響き渡りそうなほど激しく打ち鳴らされていた。
「お、おい小娘! 離れろ! 気安く高位の魔族に触れるでない!」
「えー、いいじゃない減るもんじゃなし! あ、そうだ、あんた名前なんだっけ? たしかムクロギリだっけ?」
「そ、そうだ! 恐れ多くも闇の処刑人、骸斬様だ!」
「よし、じゃあこれからはムクロちゃんね! また仕事のプレッシャーで悪夢を見たら呼ぶから、その時もペアプログラミングとメンタルコーチングよろしくね、ムクロちゃん!」
「ム、ムクロちゃんと呼ぶなあああ!!」
骸斬は羞恥のあまり、大鎌のついた両腕で自分の顔を覆い隠し、全身の装甲の隙間から蒸気のようなピンク色の霧をプシューッと噴き出した。
先ほど自分で得意げに解説した皮肉過程理論そのままであった。「小娘の笑顔を意識するな、ドキドキするな、可愛いと思うな」と念じれば念じるほど、骸斬の監視過程は凛のキラキラした笑顔とシャンプーの香りを脳内モニターにフルスクリーンで拡大表示し続け、彼自身の精神構造が完全にスタックオーバーフローを起こしていたのである。
「こ、今夜のところはこれくらいにしておいてやる! 命拾いしたな小娘! せいぜい朝まで安眠するがいい! さらばだーーっ!!」
骸斬は凛の腕から逃げるようにバタバタと後ずさりすると、空間の裂け目を大鎌で強引にこじ開け、顔を耳まで真っ赤にしたまま現実世界へと緊急ログアウトしていった。
「あはは、なんだあれ。最後は真っ赤になっちゃって。怖い顔してるのに、すっごくいい怪人だったなあ……」
凛はコスモスが揺れる花畑の真ん中で、心地よい秋風に吹かれながらくすくすと笑った。
そしてそのまま、温かな毛布に包まれるような感覚とともに、深く穏やかなノンレム睡眠の底へとゆっくりと落ちていった。
午前七時三十分の現実と拳の痕跡
『ピピピ、ピピピ、ピピピ……』
枕元に置いたスマートフォンの軽快なアラーム音で、凛は目を覚ました。
遮光カーテンのわずかな隙間から、十一月の澄んだ朝の陽光が二〇二号室の部屋へと真っ直ぐに差し込んでいる。窓の外からは、遠くで近鉄田原本線の電車が池部駅へと向かう長閑な走行音と、スズメの鳴き声が聞こえていた。
「……んあぁ……よく寝たぁ……」
凛はベッドの上で毛布を蹴飛ばし、両腕をぐーっと伸ばして大きな伸びをした。
ここ二週間、毎朝のように胃のキリキリする痛みと激しい動悸で最悪の目覚めを迎えていたのが嘘のように、今朝は頭の中が信じられないほどすっきりとしていた。身体の芯から力がみなぎっている。
(なんか、すっごく変で楽しい夢を見た気がするな。トゲトゲの怪人が出てきて、最初は私がタックルしてボコボコにしちゃったけど、途中から夢の脳科学とかシロクマ効果を教えてくれて……ふふ、よっぽどリリースのストレスが溜まってたから、私の脳が勝手に優しいカウンセラーを作り出したのかもね)
そう微笑みながら、凛はスマートフォンのアラームを止めようと右手を伸ばした。
そして、朝の光に照らされた自分の右拳を見た瞬間、ピタリと動きを止めた。
「…………え?」
彼女の右の拳──特に人差し指と中指のナックル部分に、見たこともない乾いた紫黒色の液体がべっとりとこびりついていたのである。
それだけではない。ベッドから身を乗り出して床のフローリングを見てみると、そこにはカブトムシの角を巨大化させたような紫黒色の硬い外骨格の破片が二つ三つ落ちており、さらには二重サッシの窓枠に、誰かが顔を真っ赤にして慌てて外へ飛び出したかのような、不器用な引っ掻き傷までくっきりと残っていた。
「……これ、返り血……? えっ、ちょっと待って。あの最初の右オーバーハンドフックとマウントからのパウンド連打……!?」
凛は自分の拳と床の破片を交互に見比べた。
つまり、昨夜の出来事を論理的に整理するとこうなる。
河合町の伝承にある「夢喰いの怪人」は本当に実在し、彼女の命を奪うためにこの二〇二号室へ不法侵入した。しかし、極限状態のITエンジニア兼元総合格闘家であった凛は、夢と現実の境界線を超越したゴリゴリの物理フィジカルで怪人の顔面を陥没させ、チョークスリーパーでタップを奪い、デバッグ作業を手伝わせた挙句、最後はハグをして純情な怪人を赤面させて追い返した──ということになる。
三秒ほど沈黙した後、凛はポンと手を打った。
「……ま、いっか! 結果的にここ数ヶ月で一番ぐっすり眠れたし、次にムクロちゃんが遊びに来たら、殴っちゃったお詫びとお礼に美味しいプロテインと鹿せんべいでも用意しておいてあげよう!」
関西学生ベスト4まで勝ち上がった元格闘家のメンタルは、そこらの怪異よりもはるかに図太かった。
凛は鼻歌を歌いながらベッドを降り、洗面所で拳の紫色の返り血を石鹸で綺麗に洗い流すと、キッチンで淹れたての熱いブラックコーヒーを作って仕事用のデスクへと向かった。
午前八時五十五分のターミナル
時刻は午前八時五十五分。
新決済システムの本番リリース開始まで、残り五分である。
凛は自室のデスクで高解像度のデュアルモニターを立ち上げ、左の画面に社内チャットツールと監視ダッシュボード、右の画面に本番環境の黒いターミナル画面を並べて表示していた。
(いい? 焦るから事態は悪くなるのよ。昨夜、ムクロちゃんも言ってたじゃない。『エラーが出るな、落ちるな』って否定形で考えると、シロクマ効果で余計なミスを引き寄せる。大事なのは『すでに正常稼働している姿』を肯定形でイメージすること。私は落ち着いている。私の前頭前野はフル稼働している。私は冷静沈着なプロフェッショナル……)
凛は胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸をしながら昨夜の怪人のアドバイスを反芻した。
心拍数は見事に安定している。指先の震えも一切ない。これだけメンタルが整っていれば、万が一本番環境で多少の想定外エラーが起きたとしても、落ち着いてログを読み解き、華麗に対処できるはずだ。
『おはようございます、葛城さん。クライアントの役員の方々もオンライン会議室に入室されました。それでは定刻通り、本番デプロイのスクリプトを実行してください』
ヘッドセットのスピーカーから、プロジェクトマネージャーの緊張した声が聞こえてきた。
「はい、おはようございます。それでは本番デプロイ、開始します」
凛は澄み切った青空のような心境で、愛用のキーボードのエンターキーを「スコッ」と優しく押し込んだ。
黒いターミナル画面の上で、デプロイスクリプトが走り始める。プログレスバーが滑らかに右へと伸びていく。十パーセント、三十パーセント、五十パーセント──。
(よし、順調。マイグレーションも通った。やっぱり焦らず落ち着いてやれば、本番リリースなんてなんてことない──)
凛がコーヒーカップに手を伸ばそうとした、まさにその矢先だった。
ブツンッ!!
左右のモニター画面が突如として一瞬ブラックアウトし、直後、監視ダッシュボードのすべてのインジケーターが、これまで見たこともない毒々しい真っ赤な色に染まった。そして画面の中央に、システムからの緊急アラートウィンドウが幾重にも重なってポップアップした。[緊急警告] クラウド事業者の東京リージョンおよび大阪リージョンにおいて、沖合での海底ケーブルの同時切断と変電所への落雷火災が同時に発生しました。これに伴い、本番データベースおよび災害対策用バックアップの全レプリカが物理的に消滅しました
「…………はい?」
凛の思考が完全に停止した、その一秒後。
ヘッドセットの向こう側から、プロジェクトマネージャーの鼓膜が破れんばかりの絶叫と、オフィスが阿鼻叫喚のパニックに陥っている怒号が飛び込んできた。
『か、葛城さん!? 大変です、今すぐネットのニュース見てください! 私たちが今回の決済システムで連携している海外の認証APIの運営会社が、さっき社長の横領が発覚して突然破産申請し、全世界のサーバーを予告なしで物理シャットダウンしました! あと、インフラ担当の佐藤くんが、寝ぼけてローカルの開発用ダミーデータを唯一生き残っていたオンプレミスのストレージに強制上書きして、そのまま退職届をチャットに貼って音信不通になりましたあああ!! どうしましょう葛城さん!? これどうすれば直りますかあああ!?』
「……………………」
凛は一言も発さず、ゆっくりと両手でヘッドセットを外し、デスクの上にそっと置いた。
そして椅子をくるりと回転させ、窓の外へと視線を向けた。
二重サッシの向こう側、奈良県北葛城郡河合町の空はどこまでも高く澄み渡り、雲ひとつない美しい十一月の秋晴れが広がっていた。佐味田川の堤防沿いでは、近所の老人がのんびりと柴犬の散歩をしており、遠くの馬見丘陵公園の木々が穏やかな風に揺れているのが見える。
これは夢ではない。
レム睡眠中の扁桃体の暴走でもなければ、皮肉過程理論・シロクマ効果による幻覚でもない。
十分な睡眠をとって完全にリフレッシュした背外側前頭前野を百パーセント稼働させ、極めて論理的かつ客観的に目の前の現実を分析した結果、優秀なシステムエンジニアである葛城凛の脳内で導き出された結論は、ただ一つだった。
「あ、さすがにこれは無理だわ」
凛は静かにノートパソコンのディスプレイをパタンと閉じ、スマートフォンの電源を長押しして完全にオフにした。
それから彼女は立ち上がり、数分前に出たばかりの温かいベッドへと再び潜り込むと、頭からすっぽりと毛布をかぶった。
目を閉じれば、あのコスモスが咲き誇る夢の花畑で、またあの優しくて真面目なトゲトゲの怪人が、顔を真っ赤にしながら待っていてくれるかもしれない──そんな甘美な現実逃避の明晰夢を追いかけながら、彼女は二度寝という名の深い闇へと、迷いなく旅立っていった。
めでたし、めでたし。
