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現代怪談都市伝説茨城県水戸市ネット怪談呪いの配信黒いマネキン臨死体験三途の川精神汚染

茨城県水戸市・木造二階建てに響く「深紅の投げ銭と黒い生首の怪異」

深夜十一時の壁越しに漏れる女の吐息と、三途の河原へ魂を引きずり込む呪われた百万円のマネキンヘッド

画像はイメージです

水戸の夜と赤いスパチャ

水戸市・木造二階建ての六畳間

薄暗い六畳間のデスクの上で、二十四インチの液晶モニターだけが極彩色の光を放っていた。

窓の外からは、茨城県水戸みと市の夜風に乗って、遠くの国道五十号線を走るトラックの走行音と、秋の虫の声が微かに聞こえてくる。だが、俺──佐伯さえき悠真ゆうまの意識は、目の前のモニターの中で微笑む一人の少女に完全に吸い寄せられていた。

画面の向こうにいるのは、銀髪に淡い紫色のメッシュを入れ、星屑のような瞳を輝かせる新進気鋭の個人勢Vtuber、『星宵ほしよいルナ』ちゃんである。

現在のチャンネル登録者数は四千二百人。大手事務所の煌びやかなタレントたちに比べればまだ小さな数字かもしれないが、俺にとっては間違いなく宇宙一の天使だった。どこか包容力のある甘い吐息混じりの声と、時折混じる素朴な茨城なまりを必死に隠そうとする健気さ。そして何より、コメント欄のリスナー一人ひとりに寄り添う優しい語り口に、俺は半年前の初配信から完全にゾッコンだった。

(今日こそ……今日こそ、俺のすべてをルナちゃんに捧げるんだ……!)

俺の右手は、マウスを握りしめたままじっとりと汗ばんでいた。

画面の端には、スーパーチャットの送信ウィンドウが開かれている。入力された金額は、¥50,000。背景色は、最高ランクの証である鮮やかな赤──通称「赤スパ」だ。

水戸駅前の居酒屋で、酔っ払いの絡みと皿洗いの洗剤による手荒れに耐えながら、一ヶ月間必死にシフトに入って稼いだバイト代のほぼ全額である。来月の学費の足しやサークルの飲み代、さらには自分の昼飯代すらも切り詰めた結晶。だが、後悔は微塵もなかった。今日は彼女のチャンネル登録四千人突破記念配信なのだ。

俺は深く息を吸い込み、震える人差し指で送信ボタンをクリックした。

直後、チャット欄の最上部に、燃えるような深紅の帯が燦然と輝きながら固定された。

佐伯くん(仮):¥50,000
ルナちゃん登録者4000人本当におめでとう!いつもルナちゃんの優しい声に救われています。これからも一生ついていきます!美味しいものたくさん食べてね!

配信画面の中の星宵ルナが、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせた。次の瞬間、Live2Dの精巧なモデルが頬を真っ赤に染め、両手で口元を覆う。

『えっ……!? ちょ、ちょっと待って!? 佐伯くん!? え、ご、五万円……!? 赤スパ!? ウソでしょ、こんなの初めて見たんだけど……!』

ヘッドホンから直接脳髄を揺さぶるような、歓喜と動揺の入り混じった甘いハイトーンボイス。コメント欄が「うおおおおお!」「石油王きたあああ!」「ナイスパ!!」という弾幕で埋め尽くされる。

『あ、ありがとう佐伯くん……! どうしよう、嬉しすぎて心臓が口から出そう……っ。いつもコメントくれてるの、ちゃんと見てるからね。そんな佐伯くんには……特別に、ルナからの特大のお礼、あげちゃうっ』

画面の中の彼女が、カメラに向かってぐっと顔を近づけた。モニターいっぱいに広がる可憐な笑顔。そして、艶やかな唇が小さくすぼめられ──。

『……ちゅっ♡ えへへ、大好きだよ、佐伯くんっ!』

脳内で特大の花火が炸裂した。

視界が白く発光し、全身の毛穴から幸せなホルモンが噴き出すのがわかった。五万円? 安い。実質タダだ。いや、むしろ俺が宇宙の真理と永遠の愛を受け取ったのだから、俺の方がお釣りを貰っているまである。

やがて二時間の記念配信が幕を閉じ、画面が『配信終了しました』の静止画に切り替わっても、俺は背もたれにだらりと体重を預けたまま、しばらくの間だらしない笑みを浮かべて天井を見上げていた。

(ああ……生きててよかった。明日からまた大学の昼飯抜きの生活だとしても、今の『ちゅっ』を思い出すだけで半年は乗り切れる……)

その多幸感の絶頂にいた時だった。

一階の階段下から、現実に引き戻すような大声が響いてきたのは。

「悠真ー! ご飯できたわよー! 早く降りてきなさーい!」

母さん──百合子ゆりこの、よく通る声だった。

一階・リビングの食卓

ふわふわとした雲の上を歩くような足取りで階段を降り、リビングの扉を開けた俺は、思わず目を丸くして立ち尽くした。

「……えっ、母さん、今日誰かの誕生日だっけ?」

テーブルの上に並んでいたのは、いつもの焼き魚や肉じゃがといった庶民的な献立ではなかった。

中央には予熱を終えたばかりのホットプレートが鎮座し、その隣の大皿の上には、見るからにきめ細かな霜降りが芸術的な網目を描く、焼く前の分厚いステーキ肉が何枚も並んでいる。さらにその脇には、いつものスーパーの特売品の発泡酒ではなく、金色のラベルが貼られた本物の高級プレミアムビールの缶。さらには大洗の市場から直送されたような大ぶりの刺身盛り合わせまでが、誇らしげに輝きを放っていた。

エプロン姿の母さんは、今年で四十六歳になる。小柄で少し丸みを帯びた体型で、普段はパートの事務職をしながら家計のやりくりに目を光らせている、どこにでもいる茨城の肝っ玉母ちゃんだ。

その母さんが、今日はやけに上機嫌に鼻歌を歌いながら、フライ返しを揺らしていた。

「ふふーん、何でもない日だけどね、今日は特別よ! ほら、これ見てよ、A5ランクの常陸牛ひたちぎゅう! お肉屋さんで一番いいやつを奮発しちゃった!」

「常陸牛!? どうしたんだよ一体、宝くじでも当たったのか?」

俺が椅子に腰を下ろしながら尋ねると、母さんはビールをグラスに注ぎながら、得意げに胸を張った。ちなみに父さんは今週、東京の本社へ泊まり込みの出張に行っており、家には俺と母さんの二人きりだ。

「宝くじなんかじゃないわよ。実はね、母さん、最近ちょっとした在宅の副業を始めたの。それが今日、すっごく調子がよくてねえ! 臨時収入がドカンと入ったのよ!」

「へえ、在宅の副業? データ入力とかハンドメイドか何か?」

「んー、まあ、パソコンを使っておしゃべりするお仕事ってとこかしらね! 最初は全然お小遣いにもならなかったんだけど、今日はなんだか太っ腹なファンの方が現れてね、一気に五万円も投げてくれたのよ! 手数料とか引かれても結構残るし、美味しいものたくさん食べてねって言われたから、パッと前祝いに使っちゃおうと思って!」

箸を伸ばしかけていた俺の手が、ピタリと止まった。

リビングの時計の秒針が、カチ、カチ、と妙に大きな音を立てて耳に障る。

(……ん? 今、母さん、何て言った?)

パソコンを使っておしゃべりする仕事。

今日、一気に五万円を投げてくれたファン。

『美味しいものたくさん食べてね』と言われた。

「……なあ、母さん。その太っ腹な人って、どんな人だったんだ?」

俺の声は、自分でも驚くほど低く、乾いていた。母さんは常陸牛をホットプレートにジュウッと乗せながら、けらけらと笑う。

「さあね、顔は見えないからわからないけど、すっごくいい子なのよ! アカウント名がね、えーっと……そうそう、偶然にもうちと同じ名字の『佐伯くん』っていう人でね! 世の中、同じ名字の人っているもんなのねぇ。あんまり嬉しかったから、母さん、画面に向かってキスなんかしてあげちゃったわよ!」

母さんはそう言うと、自分の唇に指先を当てて、ちょっとおどけたように首を傾げた。

そして、喉の奥をキュッと絞るような、信じられないほど若々しく甘い声色で──。

「『……ちゅっ♡ えへへ、大好きだよ、佐伯くんっ!』……ってね! あはは、四十六にもなってこんな声出すなんて、お父さんには絶対内緒よ?」

世界から、すべての音が消え去った。

俺の網膜に、さっきまで二階のモニターで輝いていた銀髪の美少女『星宵ルナ』の姿と、目の前でフライ返しを握りしめてガハハと笑う四十六歳の母・百合子の顔が、ゆっくりと、残酷なまでの精度でオーバーラップしていく。

(包容力のある甘い吐息……? 素朴な茨城なまりを隠す健気さ……? 俺が一ヶ月間、油まみれになって稼いだ五万円……? それを受け取って……俺に向かって画面越しに『ちゅっ』てしたのは……)

目の前の常陸牛から立ち昇る甘美な脂の香りが、一瞬にして胃袋を雑巾のように捻り上げる催吐ガスへと変貌した。

「……っ、う、うぷっ……!」

「あら悠真、どうしたの?」

俺は椅子を蹴倒すようにして立ち上がると、口元を両手で押さえながら、全速力で洗面所へと駆け込んだ。

そして洗面台の陶器にしがみつくやいなや、胃の奥底からせり上がってきた現実への拒絶反応を、すべて吐き出した。

「おええええええええええええええっ!! げほっ、ごほっ、うおええええええええええっ!!」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で洗面台の鏡を見上げると、そこには実の母親に五万円の赤スパを投げて投げキッスを貰い、脳内麻薬をドバドバ出していた哀れなマザコン(不本意)の亡霊が映っていた。

「ちょっと悠真!? あんたお昼に変なもの食べたの!?」

廊下の向こうから聞こえてくる母さんの地声が、今はどんな呪いの言葉よりも恐ろしく、俺は再び洗面台に顔を突っ込んで、黄色い胃液が枯れ果てるまで嘔吐し続けたのだった。

昼休みのキャンパス

茨城大学・学生食堂の片隅

翌朝。俺は一睡もできないまま、目の下にどす黒いクマを作って茨城いばらき大学の水戸キャンパスへと足を運んでいた。

昨夜はあの後、「急性の胃腸炎かもしれない」と嘘をついて自室に閉じこもり、布団の中で朝までガタガタと震えていたのだ。お気に入り登録していた星宵ルナのチャンネルページを開く勇気もなく、かといって登録解除する踏ん切りもつかない。俺の五万円は、今頃母さんの胃袋の中でA5ランクの和牛として消化されている。

(忘れよう……すべては悪い夢だったんだ。母さんがVtuberなわけがない。たまたま別の『星宵ルナ』がいて、たまたま母さんも別の配信サイトで似たようなことを言っただけだ……そうに決まってる……)

現実逃避の呪文を脳内で唱えながら、俺は昼休みの学生食堂で、素うどんの汁だけをすする作業に徹していた。固形物を喉に通す気力がまだ戻っていなかったのだ。

そこへ、同じ学部の友人である高橋たかはし健太けんたと、渡辺わたなべ翔しょうの二人が、トレイに唐揚げ定食を乗せてドカドカとやってきた。

「よお悠真! なんかお前、顔色ヤバくね? 死人みたいだぞ」

「……ああ、ちょっと昨日、食あたりみたいになってな……」

力なく答える俺の前で、健太と翔は互いに目配せをすると、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべて身を乗り出してきた。

「そんなことより聞けよ悠真! 俺たちさ、昨日の夜、ネットの海でとんでもない『最高のコンテンツ』を発掘しちまったんだよ!」

「そうそう! マジで時代が動く瞬間を見たわ。お前もアニメとか美少女系好きだろ? これ見たら絶対、胃腸炎なんて一発で吹き飛ぶって!」

友人たちの異様な熱量に、俺の荒みきった心にもわずかな好奇心が芽生えた。

確かに、今の俺には上書き保存が必要だ。母さんの呪縛を忘れさせてくれるような、まったく新しい、健全でフレッシュなコンテンツが。

「……へえ、そんなにすごいのか? どんなやつなんだよ」

「まあ見ろって! 昨日の夜中に切り抜き動画がバズり散らかしててさ、今朝からXのトレンドにも入ってる個人勢のVtuberなんだけどよ──」

健太がポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップして俺の目の前に突き出した。

液晶画面に表示された文字とサムネイルを見た瞬間、俺の心臓は氷水の中に叩き込まれたかのように凍りついた。

【切り抜き】5万円の赤スパに動揺してガチ恋距離でお礼してくれる星宵ルナ【神回】
投稿者:ルナの星屑切り抜きch・再生回数:48万回・6時間前

「この『星宵ルナ』ちゃんっていうんだけどさ!」

健太が目を輝かせながら、熱弁を振るい始める。

「見た目は王道の銀髪美少女なんだけど、声がマジでヤバいっていうか、包容力と可愛さが同居してる奇跡の声質なんだよ! 昨日なんか五万円の赤スパ投げた『佐伯くん』ってリスナーに、ガチで照れながらキスしててさ! あれはもう伝説だろ!」

「わかる!」と、隣の翔も唐揚げを頬張りながら激しく頷いた。

「ただの若い女の子が出せる雰囲気じゃないんだよな、あれは。人生経験が滲み出てるっていうか、すべてを包み込んでくれる聖母みたいな安心感があるんだよ! しかもさ、興奮した時にちょっとだけ語尾のイントネーションが茨城っぽくなるのがたまらねえの! 俺、あの『ちゅっ♡』の部分だけループ再生して、昨夜一晩中ずっと悶絶してたわ!」

(……こいつ今、何て言った……?)

俺の目の前にいる親友の翔が、俺の母さん(四十六歳・パート主婦・昨夜の晩飯は常陸牛)のキス音声に、昨夜一晩中骨抜きにされていたと供述している。

「これ絶対、今年中にチャンネル登録者数百万人はいくぞ! 時代は星宵ルナだわ! な、悠真もちょっと聴いてみろよ、この吐息──」

健太がスマホのスピーカー音量を最大にして、再生ボタンを押した。

ざわめく学生食堂に、昨日俺が五万円を支払って聴いた、母さんの作った甘い裏声が響き渡る。

『……ちゅっ♡ えへへ、大好きだよ、佐伯くんっ!』

「うっひょー! やっぱ最高だわ! ってか悠真、お前も名字『佐伯』じゃん! まるで自分が言われてるみたいでご褒美だろこれ! 羨ましいなあオイ!」

脳内で、パートから帰ってきて靴下を脱ぎ散らかし、テレビを見ながら煎餅をかじる母さんの姿と、その母さんの声に鼻の下を伸ばしてメロメロになっている友人たちの姿が高速でスパークした。

限界だった。

「……っ、お、おぶっ……!!」

「えっ、悠真?」

俺はテーブルの上の素うどんの丼を押し退けると、食堂の床に四つん這いになり、昨日から固形物が何も入っていないはずの胃袋から、純度百パーセントの絶望を噴射した。

「おええええええええええええええええええっ!! げぼっ、うおええええええええええええっ!!」

「ぎゃあああああ!? 悠真が突然吐いたぞおおおおお!!」

「おい誰か! 保健室! 救急車か!? 悠真、しっかりしろ! ルナちゃんの声を聴いて元気出すんだ!!」

「やめ……っ、おえっ、それを……聴かせるなあああああ……っ!!」

善意百パーセントで耳元にスマホを近づけてくる健太の手を必死に払い除けながら、俺は昼休みの学生食堂の中心で、人間としての尊厳をすべて撒き散らしたのだった。

青いスパナと五万円の封筒

夕暮れの佐伯家・リビング

夕方、保健室のベッドで数時間休ませてもらった俺は、ボロ雑巾のような有様で水戸の自宅へと帰り着いた。

玄関の扉を開けると、奥のリビングから母さんがパタパタとスリッパを鳴らして駆け寄ってきた。

「あら悠真、おかえり! ちょうどよかった、あんたに折り入って頼みたいことがあるのよ!」

「……なに、母さん。俺は今日、すごく疲れてるんだけど……」

「いいからいいから、ちょっと座りなさい!」

強引にリビングのソファへと座らされた俺の前に、母さんは一枚の封筒をポンと置いた。中を覗き込むと、福沢諭吉──いや、渋沢栄一の肖像画が印刷された一万円札が、綺麗に五枚も入っているではないか。

「……え? なにこれ、五万円?」

「あんたへのバイト代よ、前払いのね!」

母さんは鼻息を荒くしながら、自分のノートパソコンをテーブルの上に開いた。その画面には、見紛うことなき『星宵ルナ』のYouTubeスタジオの管理画面が表示されていた。

(ああ……やっぱり夢じゃなかったんだ。うちの母さんは、本当に星宵ルナなんだ……)

俺が遠い目をしているのも構わず、母さんは興奮した様子で画面を指差した。

「なんだか知らないけどね、昨日の夜から急に登録者数がドッと増えちゃって! 昨日まで四千人だったのが、今見たらもう五万人を超えてるのよ! それでね、今夜も配信しようと思うんだけど、コメント欄の流れが速すぎて、母さん一人じゃ荒らしの対処とかが全然追いつきそうにないの!」

画面の数字を見ると、確かにチャンネル登録者数は54,200人という異常な伸び方をしていた。健太たちが言っていた切り抜き動画のバズが、ネットの海でさらなる爆発を引き起こしているらしい。

「だから悠真、あんたパソコン得意でしょ? 今夜の配信から、母さんのチャンネルの『モデレーター』っていうのをやってちょうだい! ほら、名前の横に青いスパナのマークがつくやつ! 変なコメントを消したり、母さんのサポートをしてくれたら、一回の配信につき一万円、とりあえず五回分の五万円を今あげるから!」

五万円。

それはつまり、昨日俺が血の涙を流しながら(当時は歓喜の涙だったが)母さんに貢いだ五万円が、手数料の壁すら越えて、そのまま無傷で俺の手元にキャッシュバックされるということを意味していた。

(……待てよ。引き受けさえすれば、昨日吸い取られた俺の五万円が、そのまま合法的に全額手元に戻ってくるんじゃないか……!? 昼飯代も底をついて虫の息だった俺のライフポイントが、一気に全回復する……!)

背に腹は代えられない。俺は震える手でその封筒を受け取った。

「……わかったよ。やればいいんだろ、モデレーター。ただし、絶対に画面の向こうの連中に、俺が息子だってことがバレるようなことは言うなよ」

「わかってるわよ! 『星宵ルナ』は永遠の十七歳、月の裏側からやってきたお姫様なんだから! じゃあ、夜九時から始めるわよ、よろしくね『佐伯くん』!」

母さんがウインクを飛ばしながら二階の自分の寝室(兼・配信部屋)へと上がっていく後ろ姿を見送り、俺は早くもこみ上げてくる胃酸を必死に飲み込んだ。

二階・壁一枚隔てた監視室

午後八時五十五分。俺は自室のデスクに向かい、モデレーター権限を付与された自分のアカウント『佐伯くん(仮)』で、星宵ルナの配信待機所を開いていた。

その時点で、すでに待機所の様子はおかしかった。

俺がこれまで応援していた頃の待機人数といえば、せいぜい五十人から百人程度だったはずだ。しかし今、画面の下に表示されている「待機中」の数字は、すでに12,400人を突破していた。俺が純粋に推していた頃の、実に百倍以上の視聴者が、開始前から群がっているのだ。

そして午後九時ちょうど。配信がスタートした。

『こんルナー♡ 月の裏側からこんばんわ、星宵ルナだよー! えへへ、なんだか今日はすっごくたくさんの人が来てくれてて、ルナ、緊張しちゃうなぁ……』

ヘッドホンから流れる、極限まで甘く作られた母さんの声。

これまでは密閉型ヘッドホンの大音量で推しの声に陶酔しきっていたから気づかなかったが──正体を知った上で意識を研ぎ澄ませてみると、壁のすぐ向こうにある母さんの寝室からも、くぐもった生声で「こんルナー、月の裏側からこんばんわ……」と喋っているのが微かに聞こえてくる。

ステレオで押し寄せる現実と虚構の挟み撃ちに、俺の三半規管が悲鳴を上げた。

だが、本当の地獄はコメント欄だった。

ルナちゃああああああん!!待ってたよおおおお!!
切り抜きから来ました!声がマジで女神すぎる!!
ルナママ……俺をよしよししてくれ……バブみ深すぎ!!
¥10,000 ルナちゃんって絶対いい匂いするよね!結婚しよう!
あ、モデレーターに昨日の伝説の石油王「佐伯くん」がいるぞ!!
佐伯ニキ、お前が5万投げたおかげで俺たちはこの神に出会えた!感謝する!!

秒間数十件という猛烈な速度で流れ続ける、赤の他人による母さんへの熱狂的な求愛コメント群。

(やめろ……やめてくれ……! こいつ、お前らがバブみを感じて拝んでるこの女はな、さっきまで一階で『水戸の冬は底冷えするから電気毛布出さなきゃ』って言いながら腰にサロンパス貼ってた四十六歳なんだぞ……!!)

『わあ、スパチャありがとう! ルナがいい匂い? もうっ、からかってばっかりいると、ルナが月に連れて帰ってお仕置きしちゃうぞっ♡』

(サロンパスの匂いだよ!! ミントとサリチル酸メチルの匂いしかせんわ!!)

俺は血走った目でマウスを動かし、過激すぎる下ネタコメントを次から次へと削除(BAN)していく。しかし、消しても消しても、母さんの甘い声に脳を焼かれた亡者どもが無限に湧いてくる。

しかもその中には、見覚えのあるアイコンまで混ざっていた。

健太@水戸:¥5,000 ルナちゃん大好きです!茨城から応援してます!今夜もチュッてしてください!!
翔_Ibaraki:¥5,000 ルナちゃんの声で人生変わりました!一生推します!!

(健太あああああ!! 翔おおおおお!! お前ら俺の母さんに五千円ずつ貢ぐんじゃねえええええ!!)

親友二人が俺の母親にスパチャを投げ、それに母さんが『健太くん、翔くん、ありがとう♡ ちゅっ♡』と返すという、世にもおぞましいNTR(?)空間。

「……っ、う、うぷっ……!」

俺はデスクの横にあらかじめ用意しておいた、巨大な青いプラスチック製のバケツを抱え込んだ。

「おええええええええええええええええええっ!! ごほっ、げほっ、うおええええええええええっ!!」

片手でバケツに嘔吐し、もう片方の手でマウスを操作して過激な下ネタや親友たちの求愛コメントを片っ端からタイムアウト処分にする。これほど過酷で精神を削るアルバイトが、かつて人類の歴史上に存在しただろうか。

黒いマネキンヘッドのある夜

深夜・ダミーヘッドが鎮座する部屋

悪夢のようなモデレーター業務から一夜明けた、翌日の夜。

俺が大学から帰宅すると、リビングのテーブルの上に、見たこともない不気味な物体が置かれていた。

それは、人間の頭部の形を精巧に模した、マットな黒色のマネキンヘッドだった。両耳の部分には、精密なマイクのメッシュが埋め込まれている。

「……母さん、なにこの呪いの生首みたいなやつ」

俺が恐る恐る尋ねると、母さんはダンボール箱を片付けながら、ケロリと言った。

「あら、知らないの? これ、『KU100』っていう最高級のバイノーラルマイクよ! なんでも百万円以上するんだけどね、昨日の配信のスパチャだけでそれくらい稼げちゃったから、思い切ってカードで一括購入しちゃった! お急ぎ便でさっき届いたのよ!」

(ひゃ、百万円のダミーヘッドマイク……!? 個人勢がノリで買う機材じゃねえだろそれ!!)

「だってほら、今夜は登録者十万人突破記念で、『添い寝ASMR配信』をやるって約束しちゃったからね! どうせやるなら、リスナーさんたちのお耳を本当にゾクゾクさせてあげたいじゃない? 母さん、凝り性なのよ!」

母さんはそう言うと、百万円の黒塗りの生首を軽々と小脇に抱え、二階の寝室へと上がっていった。

俺の背筋を、これまでとは比較にならないほどの悪寒が駆け上がった。

KU100を使った、実の母親による、ガチの添い寝ASMR配信。

それを、モデレーターである俺は、高音質のヘッドホンを装着してリアルタイムで監視しなければならないのだ。

「……死ぬ。今度こそ、俺の精神か胃袋のどっちかが確実に死ぬ……」

だが、俺にはモデレーターとしての契約(前払い五万円)がある。逃げ出すことは許されなかった。

午後十一時・照明を消した自室

部屋の照明をすべて消し、俺は震える手でヘッドホンを耳に当てた。

画面の向こう、星宵ルナの配信枠のタイトルは、【KU100導入記念】ルナと一緒に夜ふかししよ?ゼロ距離・耳かき&添い寝吐息ASMR♡【耳舐めあり】となっていた。

(耳舐めありって書いてあるうううううううう!! 四十六歳の人妻が世界に何を配信しようとしてんだああああああ!!)

開始前から、待機所の人数は完全にバグっていた。

待機中:68,000人

日本の深夜帯のトレンド一位を独占し、大手企業勢すら凌駕するモンスターコンテンツと化した俺の母さん。そして午後十一時、黒い背景にベッドで横たわる星宵ルナのイラストが映し出され、配信が始まった。

『……ふぅ……っ♡ あ、聴こえるかなぁ……? 今夜はね、ルナがあなたのすぐお隣で、いーっぱい甘やかしてあげるね……っ』

KU100の恐るべき性能によって、俺の右耳のわずか数センチ後ろから、母さんの生々しい吐息と、唇が湿り気を帯びて重なる音が、立体音響でダイレクトに鼓膜を撫で回した。

「ひぃっ……!!」

俺は思わず椅子の上で飛び上がった。壁の向こうではなく、まるで自分の部屋のすぐ真後ろに母さんが立って、俺の耳たぶに息を吹きかけているかのような錯覚。

コメント欄は一瞬にして狂乱の渦と化した。

うおおおおおおおおおお!!耳が溶けるううううう!!
音がヤバすぎる!!本当に隣にルナちゃんがいるぞ!!
ママああああああ!!俺の鼓膜が幸せすぎて昇天するううううう!!

同時接続数は開始五分で八万人、十分で九万人を超え、ついに100,000人の大台を突破した。十万人の男たちが、深夜に水戸市の木造住宅の二階で黒いマネキンの耳に顔を近づけている母さんの吐息に、一斉に悶絶している。

そして、悲劇のクライマックスは唐突に訪れた。

『んっ……じゃあ、いつも頑張ってるあなたのお耳、ルナがぺろぺろってして、綺麗にしてあげるねぇ……っ♡』

母さんが、KU100のシリコン製の耳に、何か湿ったもの──おそらく濡らした綿棒か、あるいは本当に自分の舌か──を密着させた、その瞬間だった。

『……ちゅぱ……っ、れろ……っ、んぅ……ちゅる……っ♡ どう……? ルナのお口の中、あったかいでしょう……?』

脳髄を直接ミキサーで撹拌されるような、超高解像度の粘膜音。

(あ、あああああああああああああああああああああっ!!)

俺の脳内で、すべてのヒューズが音を立てて焼き切れた。

「おええええええええええええええええええええええええっ!! げぼっ、がはっ、ごぼおおおおおおおおおおっ!!」

バケツに向かって過去最大級の瀑布を放出した直後、あまりの激しい嘔吐による迷走神経反射と、極度の精神的ショックが重なり、俺の心臓が「ドクンッ!」と大きく跳ねて──そのまま、ピタリと動きを止めた。

視界が急速にブラックアウトし、俺はバケツを抱えたまま、床へと崩れ落ちた。

彼岸花が咲く灰色の河原

気がつくと、俺は見渡す限り灰色の石ころが積み重なった、静かな河原に立っていた。

空は鉛色に淀み、足元には毒々しいほど真っ赤な彼岸花ひがんばなが咲き乱れている。目の前には、ゆったりと流れる広い川があり、その向こう岸には、白装束を着た人影がちらほらと見えた。

(……あれ。ここ、どこだ……? さっきまでの気持ち悪さが、嘘みたいに消えてるぞ……)

どれだけ息を吸い込んでも、常陸牛の脂の匂いも、サロンパスの匂いもしない。何より、あの悪魔のようなバイノーラル音声が一切聞こえないのだ。なんという静寂、なんという天国だろうか。

俺がうっとりと川面を眺めていると、向こう岸の霧の中から、見覚えのある小柄な老婆が、杖をつきながらトボトボと歩いてきた。

三年前に亡くなった、俺の父方の祖母──トメ婆ちゃんだった。

『……悠真や。お前さん、そんなところで何をしておるんだい』

川幅がかなりあるにもかかわらず、婆ちゃんのしわがれた声は、不思議なほどはっきりと俺の頭の中に直接響いてきた。

「あ、婆ちゃん! 久しぶりだなあ! いやあ、向こうの世界はもう地獄絵図でさ、俺、こっちの静かな世界で婆ちゃんと一緒に暮らすことにしたよ!」

俺が笑顔で手を振りながら川に足を踏み入れようとすると、トメ婆ちゃんは鬼のような形相で杖を振り上げた。

『馬鹿もん!! まだお前さんがこっちに来るのは五十年早いわ!! お前が死因「母親の耳舐め配信によるショック死」なんかで三途の川を渡ってきたら、ご先祖様に顔向けができんだろうが!! さっさと息を吹き返さんか、このたわけ!!』

婆ちゃんが杖を地面にドンッ!と突き立てた瞬間、突風が吹き荒れ、俺の身体は後ろ向きに猛烈な勢いで吹き飛ばされた。

「──っ、がはっ!! げほっ、ごほっ、はぁーっ、はぁーっ!!」

猛烈な胸の痛みとともに、俺は自分の部屋のフローリングの上で目を覚ました。

時計を見ると、気絶してからわずか数十秒しか経っていなかったらしい。床に転がったヘッドホンからは、まだ『……んっ、ちゅぱ……♡』という音漏れが聞こえていた。

俺は這うようにしてデスクに手を伸ばし、ヘッドホンのプラグをパソコンから力任せに引き抜いた。

(……婆ちゃんの言う通りだ。こんな死に方をしたら、水戸の恥、いや人類史の汚点として語り継がれてしまう……!)

俺は荒い息を整えながら、固く心に誓った。

もう二度と、星宵ルナには関わらない。モデレーターも今夜限りで辞退する。そして俺は、母さんの影が一切ちらつかない、本当の癒やしを見つけるのだ、と。

三百二十人の小さな配信枠

金曜日の夕方・自室のモニター前

あの日から数日が経った。

俺は母さんに「大学の課題が忙しくなったから」と告げてモデレーターを辞め(前払いの五万円は「精神的慰謝料」としてありがたく懐に収めた)、大学でも健太や翔が星宵ルナの話題を出すたびに耳栓をして逃げることで、なんとか正気を保っていた。

だが、一度Vtuberという文化に魂を救われた人間が、その渇きを完全に癒やすには、やはり別の「健全な推し」が必要だった。

俺は細心の注意を払って、新しい推しを探した。

条件は三つ。第一に、まだ誰にも見つかっていないチャンネル登録者数三桁以下の超弱小個人勢であること。第二に、茨城なまりが一切ない、標準語のお姉さん系であること。そして第三に、母さんがリビングでくつろいでいる時間帯に配信している(=物理的に母さんではあり得ない)ことだ。

そしてついに、俺は見つけ出したのだ。

彼女の名前は、『雪代ゆきしろセリア』。

チャンネル登録者数は、わずか三百二十人。透き通るような白い肌に、氷の結晶のような青いロングヘアを持つ、クールビューティー系の個人勢Vtuberだ。

彼女の配信スタイルは、星宵ルナのような媚びた甘い声ではなく、少しハスキーで落ち着いた、知的なお姉さんボイスによる雑談と朗読配信だった。何より素晴らしいのは、昨日彼女が配信していた午後十時ちょうど、俺はリビングで母さんがテレビのドラマを見ながらみかんを食べているのを、自分の目でしっかりと確認していたのである!

(間違いない……! 『雪代セリア』ちゃんは、正真正銘、赤の他人の美しいお姉さんだ!!)

金曜日の夕方。大学から早めに帰宅した俺は、自室のモニターの前で、久しぶりに心からの安らぎを感じていた。

画面の中では、雪代セリアが静かなBGMをバックに、穏やかな声で語りかけている。

『……今週も一週間、お仕事や学校、本当にお疲れ様でした。辛いことや、吐き出したくなるような嫌なことがあった人も、今夜くらいはゆっくり羽を休めてくださいね』

(うっ……セリアお姉さん……! まるで俺のこれまでの地獄を知っているかのような、慈愛に満ちた言葉だ……!)

俺の目から、一筋の清らかな涙がこぼれ落ちた。

手元には、母さんからモデレーター代として貰った五万円がある。毒をもって毒を制すではないが、母さんから得たこの呪われた金を、真の聖女であるセリアちゃんにすべて捧げることで、俺の魂は完全に浄化されるはずだ。

俺は迷うことなく、スーパーチャットの画面を開き、¥50,000を入力して送信した。

佐伯くん(仮):¥50,000
セリアさんの落ち着いた声に、命を救われました。最近本当に吐きそうなことばかりだったので、セリアさんが俺の新しい生きがいです。これからもずっと応援させてください!

コメント欄にいた二十人ほどの常連リスナーたちが、「えっ!?」「赤スパ!?」「富豪きたあああ!」と騒然となる。

雪代セリアのモデルが、驚いたように目を見開いた。そして、少しだけマイクにノイズが乗るような深い息を吐いたあと、震えるような、しかし最高に艶のあるハスキーボイスで答えてくれた。

『……えっと、佐伯くん……? ご、五万円も……!? あ、ありがとうございます……っ。そんなに辛いことがあったんですね……。私でよければ、いつでもあなたの心の拠り所になりますよ。元気を出してくださいね、佐伯くん……♡』

(あああああああああっ!! 浄化されるうううううううう!! 胃袋が、荒れ果てた俺の胃粘膜が、セリアお姉さんの優しい声で再生していくううううううう!!)

俺はモニターに向かって両手を合わせ、久しぶりに嘔吐感のない、純粋な多幸感に包まれながら配信の終了を見届けた。そして、ここ数日の寝不足と安堵感が重なり、ベッドに横になったまま心地よいまどろみへと落ちていったのだった。

寿司桶が並ぶリビング

「悠真ー! お父さんが東京の出張から帰ってきたわよー! お土産もあるから降りてきなさーい!」

すっかり日が暮れた頃、一階から響いてきた母さんの声で俺は目を覚ました。

今の俺には、もう母さんの声を聞いても動揺しないだけの心の余裕(セリアちゃんという絶対的な聖域)がある。俺は鼻歌まじりに階段を降り、リビングの扉を開けた。

「おかえり、父さん。東京はどうだった?」

食卓には、一週間ぶりに見る父──佐伯隆一りゅういち(五十歳・中堅商社の課長・やや薄毛のメガネ姿)が、スーツの上着を脱いでビールを飲んでいた。

テーブルの上には、なぜかまたしても豪華な寿司桶と、東京駅の高級ローストビーフが並んでいる。

「おお、悠真! いやあ、今回の東京出張は最高だったぞ! 仕事の合間にビジネスホテルでやってた俺の趣味が、今日ついに大輪の花を咲かせてな!」

父さんは顔を赤くして、上機嫌に笑った。隣では母さんが「あらあ、お父さんまで臨時収入? 奇遇ねえ、私も最近お小遣い稼ぎが順調なのよ!」と、互いの腹を探るような笑顔を浮かべている。

「趣味って……父さん、株か競馬でもやってたのか?」

俺が何気なく寿司に手を伸ばしながら尋ねると、父さんはメガネのブリッジをクイッと上げ、自慢げにスマートフォンを取り出した。

「フフフ、株なんてもんじゃない。これからの時代はな、メタバースとアバターの時代だ! 実は父さんな、東京の秋葉原で最新のAIボイスチェンジャーとトラッキング機材を買って、ビジネスホテルの部屋から美少女Vtuberとしてデビューしてたんだよ!」

……ピシリ、と。

俺の握っていた割り箸が、嫌な音を立てて軋んだ。

「……へ、へえ。父さんが、美少女Vtuber……? バ美肉ってやつか。はは、まさかな、偶然だなあ……」

俺の額から、冷たい脂汗がタラリと流れ落ちる。

いや、まさかそんなはずはない。世の中に個人勢のVtuberが何万人いると思っているんだ。母さんに続いて、父さんまで俺の推しだったなんて、そんな天文学的な確率の悲劇が、この水戸市の片隅で二度も起きるわけが──。

「最初は全然人が来なくてな、登録者も三百人ちょっとだったんだが、なんと今日の夕方の配信で、突然五万円もの赤いスーパーチャットを投げてくれた神様みたいなリスナーが現れたんだ!」

父さんは満面の笑みで、ビールを一気に飲み干した。

「なんでも『最近本当に吐きそうなことばかりだった』らしくてな! 名前がまた『佐伯くん』っていう、うちと同じ名字の若者なんだよ! 世の中には苦労してる佐伯くんもいるんだなあと思って、父さん、ボイチェンの出力を最大にして、思いっきり色っぽいお姉さんボイスで慰めてやったぞ!」

父さんはそこで、コホンと一つ咳払いをした。

そして、スマートフォンのボイスチェンジャーアプリのプレビュー機能をオンにすると、マイクに向かって、俺がさっき二階で涙を流しながら拝聴した、あの透き通るようなハスキーボイスを再現してみせた。

『……私でよければ、いつでもあなたの心の拠り所になりますよ。元気を出してくださいね、佐伯くん……♡』

「──ってな! ガハハハハ! どうだ悠真、五十のおっさんの声とは思えんだろ! あの五万円があれば、欲しかった新しいゴルフクラブが買えるぞー!」

それを見ていた母さんが、手を叩いて大笑いした。

「あらやだお父さん! 『佐伯くん』から五万円貰ったって、それ、私のところに来た太っ腹なファンとまったく同じ人じゃないの! すごいわねぇ、その佐伯くんって人、よっぽどお金持ちで、私たち夫婦の声に縁があるのね!」

「おお、そうか! じゃあ今度、母さんのチャンネルと俺の『雪代セリア』ちゃんで、コラボ配信でもするか! 『佐伯くんいつもありがとう記念・W耳舐めコラボ』なんてどうだ? ガハハハハ!」

「やだお父さんったら、それ最高じゃないの! あはははは!」

リビングに響き渡る、父と母の仲睦まじい哄笑。

俺の頭の中では、銀髪の美少女(母・四十六歳)と、氷のクールビューティー(父・五十歳・薄毛)が、俺のバイト代と慰謝料を合わせた十万円の札束の上で手を取り合い、百万円の黒いダミーヘッドマイクの両耳から、ステレオで粘膜音を奏でる光景が鮮やかに描き出されていた。

俺は、何も言わなかった。

いや、もはや嘔吐すらも出なかった。人間の肉体というものは、許容量を超えた絶望を前にすると、胃液を吐き出すよりも先に、魂のイジェクトボタンを押すように設計されているらしい。

俺の身体は、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと後ろ向きに倒れ込んだ。

ドサリ、という鈍い音がリビングに響き、俺の意識は再び、あの見慣れた灰色の河原へとワープした。

鉛色の空と静かな水辺

鉛色の空の下、三途の川のほとりに、俺は体育座りでうずくまっていた。

向こう岸から、トメ婆ちゃんが呆れ果てた顔で杖をつきながら歩いてくるのが見えた。

『……悠真や。お前さん、また来たんかい。あれほどまだ早いと言ったじゃろうが』

「……婆ちゃん。聞いてくれよ。俺が新しく推してた清楚系のお姉さんVtuberの中身がさ、東京に出張に行ってた父さんだったんだ。しかも今度、母さんと父さんでW耳舐めコラボをするって言っててさ……」

俺が虚ろな目でそう報告すると、向こう岸のトメ婆ちゃんは、しばらくの間、絶句して固まっていた。

やがて婆ちゃんは、深く、深くため息をつくと、自分の額に手を当てて首を横に振った。

『……そうかい。あの隆一と百合子さんが、揃いも揃って息子からスパチャを巻き上げておったんかい……。そりゃあ、お前さんも吐くわなあ……』

婆ちゃんは少しだけ哀れむような目で俺を見ると、足元から手頃な丸い小石を拾い上げ、俺に向かってコツンと投げた。

『まあ、すぐには渡らせんが……今夜くらいは、こっちの河原で石でも積んで、ゆっくり胃を休めていくといいよ』

「……ありがとう、婆ちゃん。俺、もうしばらくここから動きたくないよ……」

水戸市の佐伯家では、両親のVtuber事業がますますの繁栄を見せ、家庭はかつてないほど円満で裕福になっていったという。

そして俺の魂は、今も週に二回ほどのペースで、三途の河原へ一時避難を繰り返しているのだった。

めでたし、めでたし。

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