トップ怪談一覧
現代怪談都市伝説東京都練馬区江古田光が丘公園ゾンビ感染パニック密室怪異

西武池袋線江古田駅・三〇二号室に巣食う「土気色の死霊」と封鎖された死者の街

遮光カーテンで閉ざされた腐海の密室と、千川通りを埋め尽くす感染者の群れを割って歩く二体の「特殊変異個体」

画像はイメージです

西武池袋線・江古田えこだ駅南口

西武池袋線の各駅停車が、少し錆びついたブレーキ音を響かせてホームに滑り込む。
改札を抜けると、そこには都心のような威圧的な高層ビル群はなく、どこか懐かしさを覚える雑多な商店街と、学生たちのざわめきが広がっていた。道幅の狭い路地には、昔ながらの定食屋や古書店、画材店、そして怪しげなエスニック雑貨屋が肩を寄せ合うように並んでいる。自転車のベルの音と、どこかの店先から漂ってくる焼き鳥の香ばしい煙が、四月の柔らかな春風に混じり合っていた。

(ここが、江古田か……)

俺──槙野まきの直哉なおやは、パンパンに膨れ上がったボストンバッグの肩紐を握り直し、スマートフォンの画面に映る地図アプリと、目の前の電柱に掲げられた街区表示板を交互に見比べた。
故郷である長野の盆地を出て、はるばる上京してきたばかりの十八歳。春からの大学進学を機に一人暮らしを始めるにあたり、俺がこの江古田という街を選んだのには、誰にも言えない、自分の胸の内にだけ秘めた明確な理由があった。

幼い頃からずっと背中を追いかけ、焦がれ続けてきた六歳年上の幼馴染。
美しく、聡明で、長野の地元では「高嶺の白百合」とまで持て囃されていた憧れのお姉さん、綾瀬あやせ沙耶さやさんが、一足先に上京してこの街に住んでいるからだ。

都内の有名私大を卒業後、そのままWeb系のデザイン制作会社に就職したと聞いている。俺が自分のアパートを借りたのも、彼女の住むマンションから徒歩五分という絶妙な距離だった。偶然を装うには少々無理がある距離感だが、俺には最強の「大義名分」が与えられていた。

出発前夜、実家のお隣さんである沙耶さんのご両親から、大量の信州リンゴと野沢菜漬け、そして手作りの二年味噌を持たされると同時に、玄関先で深々と頭を下げられたのである。

『直哉くん、本当に頼りにしてるのよ。沙耶ったら、ここ半年ほどLINEの既読もついたりつかなかったりで、電話しても「納期が」「仕様変更が」「クライアントが」ってうわ言みたいに繰り返すばかりでね……あの子がちゃんと人間らしいご飯を食べているか、部屋まで様子を見てきてちょうだい!』

相手の親から正式に託された「様子見」という使命。親公認というこれ以上ない後ろ盾が、ただの年下の幼馴染に過ぎない俺に、彼女の部屋を直接訪ねる勇気を与えてくれていた。
俺の記憶の中にある沙耶さんは、いつも清楚な白いワンピースを着て、風になびく艶やかな黒髪を耳にかけながら「直哉くんは本当に可愛いわね」と優しく微笑んでくれる、完璧で可憐なお姉さんだ。高校受験の時も、彼女が手作りのお守りをくれたおかげで最後まで頑張り抜くことができた。三年ぶりの再会に、心臓が肋骨を内側から叩くように早鐘を打っている。

商店街の喧騒を抜け、閑静な住宅街の一角に佇む、白いタイル張りの三階建てマンションの前に辿り着いた。

三〇二号室のインターホン

外階段を一段ずつ上り、三階の奥にある角部屋──三〇二号室の前に立つ。
表札には、控えめなフォントで『綾瀬』とだけ記されていた。しかし、そのドアの前に立った瞬間、俺は言いようのない違和感を覚えた。
ドアポストの隙間に、ピザ屋のチラシや水道局のお知らせ、さらには宅配便の不在票がこれでもかと詰め込まれ、今にも雪崩を起こしそうに溢れ返っているのだ。しかも、ドア横の換気扇の排気口からは、何日も外の空気を入れ替えていないような、淀んで湿り気を帯びた妙な熱気が微かに漏れ出している。

(あれ……? 沙耶さん、すごく綺麗好きで几帳面な人だったはずだけど……)

一抹の不安を覚えつつも、俺は手土産の紙袋を左手に持ち直し、一度大きく深呼吸をしてからインターホンのボタンを押した。

ピンポーン……

少し電池が切れかけているのか、掠れたような電子音が扉の向こう側で虚しく響く。
そのまま一分ほど待ってみたが、室内からは物音一つしない。大学へ行く前に自分のアパートへ荷物を置いてきたとはいえ、今は平日の昼下がりだ。リモートワークだと聞いていたが、たまたま買い物にでも出かけているのだろうか。
首を傾げ、もう一度ボタンを押そうと人差し指を伸ばした、まさにその時だった。

ズ……ズズ……ペタ、ペタ……

扉のすぐ向こう側から、何か重たい肉の塊を引きずるような、湿った足音が近づいてきた。
人間の軽やかな歩みではない。まるで、底なしの沼から這い上がってきた何かが、重力に逆らいきれずに手足を床に擦りつけているかのような、不気味で粘着質な音。

(え……? な、なんだ……?)

背筋にツーッと冷たい汗が伝う。
次の瞬間、内側からサムターンが回る硬質な金属音が響いた。

ガチャリ……ギイイィィ……

油の切れた蝶番が耳障りな悲鳴を上げ、重たい鉄のドアが数センチだけ開く。ドアチェーンはかかっていない。その暗い隙間から、まず最初にニュッと突き出されたのは、青白いを通り越して土気色に変色した、骨と皮ばかりの細い腕だった。爪の先はわずかに欠け、血管が青黒く浮き出ている。

「えっ……」

俺が思わず声を漏らすと同時に、扉がゆっくりと、しかし確実に大きく開け放たれた。
昼下がりの太陽光が差し込む玄関の薄暗がりの中に立っていた「それ」を見た瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。

腰まで伸びた長い黒髪は、何日も櫛を通していないのか海藻のようにぐしゃぐしゃに絡まり、顔の大部分を不気味に覆い隠している。その髪の隙間から覗く肌は生気を完全に失ってカサカサに乾ききり、両目の下には、誰かに殴られた跡のような紫色の巨大なクマが幾重にも刻まれていた。
虚ろに見開かれた瞳孔は完全に開ききっており、白目は毛細血管が浮き出て真っ赤に充血している。身にまとったよれよれの黒いスウェットは肩口がだらしなくずり落ち、乾いた唇の端からは、うっすらと透明な涎が糸を引いていた。

「あ……あぁ……う、ぁぁぁ……っ」

地の底から響くような、掠れきった呻き声。
首がカクン、カクンと不自然な角度に揺れ、焦点の合わない真っ赤な目が、ゆっくりと俺の姿を捉えた。

(ゾ、ゾンビだあああああっ!?)

東京は恐ろしい街だと聞いてはいたが、まさか閑静な住宅街のマンションの一室に、映画さながらの本物のアンデッドが巣食っているとは思わなかった。沙耶さんは!? まさかこの化け物に襲われて食われたのか!?
パニックに陥った俺は、声にならない悲鳴を喉の奥で引き攣らせながら、本能的に踵を返して外階段へ逃げ出そうとした。

だが──。

ガシッ!!

「ひぃっ!?」

信じられないほどの初速だった。先ほどまでの緩慢な動きが嘘のように、土気色の手が目にも止まらぬ速さで伸びてきて、俺のジャケットの袖口を万力のような力でガッチリと掴んだのだ。
振り払おうとしても、指の関節がロックされたかのように微動だにしない。獲物を絶対に逃がさないという執念すら感じる、異常な握力だった。

「ま……待っ……て……ナオ、ヤ……くん……? リンゴ……信州の、サンふじの匂い……っ」

「へ……?」

俺は硬直したまま、恐る恐る後ろを振り返った。
俺の袖を死に物狂いで掴んでいるゾンビが、ぶるぶると小刻みに生まれたての小鹿のように震えながら、絡まった前髪の隙間から涙目の瞳でこちらを見上げていた。
よく見れば、そのスッと通った高い鼻筋も、左目の涙袋のすぐ下にある小さな泣き黒子も、紛れもなく俺が幼い頃から憧れ続けてきた人の面影を残している。

「さ……沙耶、さん……? 綾瀬、沙耶さんなんですか……!?」

俺が掠れた声で名前を呼ぶと、ゾンビ──もとい、生命活動の限界を超えた状態の沙耶さんは、糸が切れた操り人形のようにその場にへなへなと座り込んだ。

「ナオヤくん……本物の、ナオヤくんだぁ……幻覚じゃ、ない……? やっと……やっと大型案件の納品、終わったのに……冷蔵庫を開けたら、食べるものが、保冷剤と賞味期限切れのからししかなくて……あぁ、ついに天国から可愛い幼馴染の姿をしたお迎えが来たのかと……」

「お迎えって! まだ死んでません! 沙耶さん、しっかりしてください! 一体どうしたんですかその姿は!?」

俺は慌てて手土産の紙袋を床に置き、玄関のたたきに崩れ落ちた彼女の肩を抱き起こした。
触れ合った彼女の身体は、驚くほど軽く、骨が浮き出るほど痩せ細っていた。そして何より、徹夜明け特有の異様な熱っぽさと、氷のように冷え切った指先のアンバランスな温度が、彼女の置かれている危機的状況を何よりも雄弁に物語っていた。

遮光カーテンの閉ざされた部屋

「うぅ……眩しい……太陽の光が、網膜と皮膚を焼くぅ……灰になっちゃう……」

「遮光カーテンを十センチ開けただけですよ! 吸血鬼かアンデッドみたいなこと言わないでください!」

俺は沙耶さんをなんとか部屋の奥へと運び込み、唯一足の踏み場があったセミダブルベッドの端へと座らせた。そして、改めて部屋の中を見渡した俺は、玄関先とは別の意味で悲鳴を上げそうになった。

そこは、かつて「高嶺の白百合」と呼ばれた美少女の部屋とは到底思えない、完全なる「腐海」──すなわち絵に描いたような汚部屋だった。
九畳ほどのワンルームの床は、脱ぎ捨てられたスウェットやブラウス、飲みかけのペットボトル、銀色のエナジードリンクの空き缶、そして大量のコンビニ弁当やカップ麺の空容器で埋め尽くされ、フローリングの木目がほとんど見えない。部屋の隅には通販の段ボール箱がピサの斜塔のように危うい角度で積み上がり、ワークデスクの上には巨大な液晶モニターが三枚並び、その周囲を無数の黄色い付箋と黒い配線コードが蜘蛛の巣のように覆っている。

三枚のモニターのうち中央の一枚には、まだ社内チャットツールの画面が開きっぱなしになっていた。

【至急】クライアント確認戻し:トップページのデザイン案、やっぱりA案のレイアウトをベースにしつつ、B案のポップなテイストとC案の重厚感を混ぜて、明朝8時までに再提出お願いします!
綾瀬:承知いたしました。ただちに対応いたします。

最後の送信時刻表示は、今日の午前七時四十二分。
つまり彼女は、完全なるフルリモートワークで一歩も部屋から出ないまま、悪魔のような仕様変更と激務の荒波に飲まれ、三日三晩ほとんど一睡もせずにモニターと向き合い続けていたのだ。その結果、人間としての生気と生活能力をすべて吸い取られ、文字通りの「在宅社畜ゾンビ」へと成り果てていたのである。

「沙耶さん、とりあえず白湯を一口飲んで。……それから、ベッドに横になって少し休んでてください。キッチンと部屋を片付けて、温かいご飯ができたら起こしますから」

「う、うぅ……ナオヤくんが、こんなに大きくなってる……昔は私の肩までしかなかったのに、見上げるくらい背が高くなって、声も低く落ち着いちゃって……あぁ、やっぱりこれ、餓死寸前の脳が見せてる都合のいい走馬灯……?」

「走馬灯じゃありません! 正真正銘の現実です。ほら、毛布掛けて横になって」

俺はふらつく彼女の肩を支えてベッドに寝かせると、ジャケットを脱いでシャツの腕まくりをした。この惨状では料理を作るどころか足の踏み場もない。
まずベランダの窓を全開にして、部屋にこもった淀んだ空気を追い出すことから始めた。
幸い、俺は長野の実家で共働きの両親に代わって小学生の頃から家事全般をこなしていたため、掃除も洗濯も料理も一通り以上のスキルがある。さらに高校の三年間で身長は百八十二センチまで伸び、バスケ部で鍛えた体幹のおかげで体力には絶対の自信があった。

キッチンから見つけ出した四十五リットルのゴミ袋を片手に、俺は猛然と部屋の片付けを開始した。
空き缶とペットボトルを高速で分別し、床に散乱した衣類を洗濯カゴへ放り込み、段ボールを潰して紐で縛る。掃除機でホコリを吸い取ってから、固く絞った雑巾でフローリングを端から端まで拭き上げていく。その間、ベッドの上の沙耶さんは、毛布にくるまって芋虫のように丸まりながら、トロンと潤んだ目で俺の働く背中をじっと見つめていたが、やがて安堵したように静かな寝息を立て始めた。

一時間後。見違えるように綺麗になった部屋のミニキッチンで、俺は持参した手作りの信州味噌と、近くのスーパーへ走って買い足してきた絹ごし豆腐、なめこ、九条ネギを使って温かい味噌汁を作った。さらに土鍋代わりの片手鍋で艶やかな白米を炊き、徹夜明けの弱った胃にも優しそうな甘いだし巻き卵と、脂の乗った甘塩鮭をグリルで丁寧に焼き上げる。

「沙耶さん、起きてください。ご飯ができましたよ。いきなりたくさん食べると胃がびっくりするので、少しずつよく噛んで食べてくださいね」

拭き上げたばかりのローテーブルの上に、湯気を立てる朝食のお盆を並べると、目をこすりながら、毛布をマントのように引きずってゾンビ歩きの沙耶さんがやってきた。
彼女はペタンと座布団の上に座り、震える手で箸を持つと、まずはなめこと豆腐の味噌汁を一口すすった。

「……っ、はぁぁぁ…………」

その瞬間、彼女の口から、魂の穢れがすべて浄化されるような深い溜息が漏れた。
土気色だった頬に、みるみるうちにほんのりとした桜色の血色が戻ってくる。一口、また一口と、炊きたての白米とふわふわのだし巻き卵を口に運ぶたび、彼女の瞳から澱んだ濁りが消え、本来の澄んだ潤いと輝きが蘇っていくようだった。

「おいしい……っ。なにこれ、温かい……お出汁の香りが五臓六腑に染み渡るわ……。人間の食べる味がする、直哉くん……っ」

ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、彼女は綺麗に一膳を平らげた。
そして「ちょっとお風呂入ってくるわね……」と呟いて着替えを手に浴室へと消え、四十分ほどして洗面所のドアが開いた時には──。

「ふぅ……やっと人間界に生き返ったわぁ……」

バスタオルで濡れた黒髪を拭きながら出てきたその姿に、俺は思わず息を呑んだ。
目の下のクマはまだうっすらと残っているものの、湯上がりの肌は陶器のように白くきめ細やかに艶めき、ほんのりと上気して薔薇色に染まっている。ゆったりとしたパステルカラーの部屋着のワンピースからは、スラリと伸びた白い手足と、鎖骨の華奢なラインが惜しげもなく覗いていた。

玄関先で俺を恐怖のどん底に叩き落としたゾンビから、記憶の中以上に美しく大人の色気を増した「憧れのお姉さん」へと、完全に蘇生を果たしていたのだ。

二人分の食卓と合鍵

「それにしても……本当にびっくりしたわ。あの小さくて、私の後ろを『さや姉、さや姉』って半泣きでついて回ってた直哉くんが、こんなに背が高くて、お料理も掃除も完璧なハイスペック男子になっちゃうなんて」

ドライヤーで長い髪を乾かし終えた沙耶さんは、すっかり上機嫌な様子で、ローテーブルの前に座る俺のすぐ隣にペタリと座り込んだ。
シャンプーの甘いフローラルな香りがふわりと鼻腔をくすぐり、俺の心臓は再び跳ね上がる。距離が近い。柔らかい太ももと俺の膝が触れ合うほどの至近距離から、彼女は潤んだ大きな瞳で俺の顔をじっと見上げてきた。

「い、いや、ハイスペックなんてそんな大したことないですよ。ただの実家暮らしの延長というか……それより、沙耶さんが無事で安心しましたけど、こんな無茶な生活を続けてたら、いつか本当に倒れちゃいますよ」

「うぅ、耳が痛いわ……でもね、一度繁忙期に入って生活リズムが壊れると、一人じゃどうにも戻せなくなっちゃうのよ。ご飯を作る気力もないし、お湯を沸かす間に寝落ちしちゃうし……」

沙耶さんは少ししょんぼりとしたように眉を下げると、俺のシャツの裾を、先ほどゾンビ状態で掴んできた時とは打って変わって、白い指先で控えめにちょんと摘まんだ。

「ねえ、直哉くん。直哉くんの通う大学、ここから歩いてすぐなんでしょう? だったら……明日もここに来てくれないかしら」

「え? あ、はい。もちろん明日も様子は見に来ますけど……」

「ううん、たまの様子見じゃなくて。毎日来てほしいの。……ううん、やっぱり駄目。いっそのこと、このままこの部屋に住み込んでちょうだい」

「っ!? す、住み込むって、沙耶さん!? 俺、自分のアパートを借りたばっかりなんですけど!?」

思わぬ爆弾発言に、俺は裏返った声を上げた。
しかし沙耶さんは、いたって真剣な、それでいてどこか小悪魔めいた艶っぽい笑みを浮かべて、俺の右腕に自分の細く柔らかい両腕をギュッと絡めてきた。

「だって、直哉くんの手料理、本当に涙が出るくらい美味しかったんだもの。私、こう見えてお給料だけはたくさんもらってるけど、使う暇がなくて口座に貯まる一方なのよ。食費も光熱費も全部私が出すし、お小遣いだってあげるわ。それに……うちのお母さんたちにも『直哉くんに毎日しっかり監視してもらってます』って報告したら、きっと大喜びすると思わない?」

(沙耶さんのご両親から託された『様子見』っていう大義名分を、完全に逆手に取られた……!)

しかも、二の腕にむぎゅっと押し当てられる彼女の豊かな胸元の感触と、湯上がりの体温に、俺の理性はあっけなく沸騰しかけていた。幼い頃からずっと憧れていた綺麗なお姉さんに、こんなにも無防備に甘えられ、必要とされて、冷たく断れる男がこの世にいるだろうか。いや、断れるはずがない。

こうして、俺の東京での大学生活の幕開けと同時に、三〇二号室での「ほぼ同棲」としか言いようがない通い夫生活が始まったのである。

脱衣所の洗濯カゴと湯上がりの体温

沙耶さんからシルバーの合鍵を渡されてからというもの、俺の毎日は心臓がいくつあっても足りないほど刺激の連続だった。
朝七時に自分のアパートを出て沙耶さんの部屋へ向かい、朝食を作ってベッドで丸まっている彼女を優しく(時には布団を剥ぎ取って)起こす。大学の講義が終われば、夕方の江古田市場や商店街で特売の春野菜や新鮮な魚を買い込み、再び彼女の部屋へ戻って夕食を作り、部屋の掃除と洗濯をこなす。

数ある家事の中で、最も俺の精神力を削ったのは、間違いなく「洗濯」という名の試練だった。

「あ、直哉くん。脱衣所のカゴの中、そのまま全部洗濯機で回しちゃっていいからねー」

デスクでペンタブレットを走らせながら、沙耶さんは何気ない調子でそう言う。
しかし、いざ脱衣所のランドリーバスケットを覗き込むと、そこには大人びた繊細なレースがあしらわれた淡いラベンダー色や漆黒のブラジャーと、シルク調の小さなショーツが、何の遠慮もなく一番上に乗っかっているのだ。

(こ、これを俺が選別して、ネットに入れて、干すのか……!?)

型崩れを防ぐために手洗いモード用の洗濯ネットへ入れようと指先が触れるだけで、まるで自分の指が火傷してしまいそうなほどの羞恥心と背徳感が襲ってくる。ベランダのピンチハンガーに干す時も、外や隣のマンションから見えないように大判のバスタオルで周囲をぐるりと囲む「要塞干し」を徹底しながら、俺は毎回のように耳の先まで真っ赤にしていた。

それだけではない。俺の食事管理のおかげで人間としての健康と美貌を完全に取り戻した沙耶さんは、仕事の合間のリフレッシュと称して、俺に対するスキンシップが日に日に過剰になっていったのだ。

「んーっ、ずっと画面見てたら肩が凝っちゃったわ。直哉くん、ちょっとエネルギー充電させてぇ」

夜、俺がローテーブルで大学の一般教養の課題レポートを書いていると、お風呂上がりの沙耶さんが背後から音もなく忍び寄り、後ろからぎゅうっと俺の首筋に抱きついてくる。
そのまま俺の肩にちょこんと顎を乗せ、うなじのあたりに甘い吐息を吹きかけながら、飼い猫のように柔らかい頬をすり寄せてくるのだ。

「さ、沙耶さんっ、くすぐったいですって……! あと、その格好で密着されると、目のやり場に困ります!」

「えー? ちゃんとお洋服着てるじゃない。直哉くんの前だけなんだからいいでしょ? ほら、直哉くんの背中、昔よりずっと広くて温かいから、こうしてくっついてると良いデザイン案が湧いてくるのよぉ……あと五分だけ、ね?」

薄手のキャミソールとショートパンツという、ほぼ下着と大差ない無防備な姿で背中から密着され、俺の心拍数は毎晩のように限界突破していた。
彼女にとって俺は、まだ可愛い年下の弟分なのか、それとも一人の異性として少しは意識してくれているのか。その絶妙な境界線で翻弄され続ける甘酸っぱい日々が、これからもずっと続いていくものだと、俺は疑いもしなかった。

──あの日、東京という巨大な都市が、突如として悪夢に飲み込まれるまでは。

封鎖された東京

五月の大型連休が明けた、ある蒸し暑い曇り空の火曜日の午後だった。
大学の午後の講義が休講になり、いつもより早く三〇二号室で夕食の肉じゃがの仕込みをしていた俺のスマートフォンが、これまでに聞いたこともないほど凶々しい警報音を鳴り響かせた。

ギュイイィィン! ギュイイィィン!

キッチンに置いてあった俺のスマホだけではない。デスクで作業をしていた沙耶さんの業務用スマホからも、私用タブレットからも、一斉に同じ緊急速報のアラームが部屋中に鳴り響く。

「な、なんだ!? 直下型地震か!?」

俺は慌ててガスコンロの火を止め、エプロンで手を拭きながらスマホの画面を掴み取った。
しかし、そこに表示されていたのは、地震速報ではなく、内閣官房および東京都知事からの異常極まりない警告文だった。

『【緊急事態宣言・広域外出禁止令】現在、都内各所において原因不明の急性感染症による暴徒化事案が多発しております。対象からの噛みつき・引っ掻き等により同様の狂暴化症状が急速に拡大しているため、現在時刻をもって東京都全域に封鎖措置(ロックダウン)を発令します。都民の皆様は直ちに建物の窓および扉を施錠し、救助または避難誘導があるまで絶対に外出しないでください』

「暴徒化……? 噛みつきで感染……?」

文字の意味がすぐには飲み込めず、俺がリビングのテレビの電源を入れた、まさにその瞬間だった。
マンションの三階の下──江古田の穏やかな住宅街の路地から、鼓膜を突き刺すような女性の悲鳴と、自動車が電柱に激突する凄まじい破壊音が響き渡った。

ガシャアアアンッ!! 「きゃあああああっ!! 誰か、助けてえええっ!!」

「グアアアァァッ……! ウ、アアアァァ……ッ!!」

「え……?」

俺と沙耶さんは弾かれたように顔を見合わせ、恐る恐るベランダの窓へと歩み寄り、レースのカーテンを数センチだけめくって階下の通りを見下ろした。
そこは、一瞬にして地獄絵図へと変貌していた。

普段は美大生や買い物客がのんびりと歩いているはずの商店街脇の路地に、血塗れの衣服をまとった人間たちが何十人も溢れ返り、異様な動きで徘徊していたのだ。
ある者は白目を剥き、ある者は口元を赤黒く染めながら、逃げ惑う通行人に獣のように飛びかかってはその首筋や腕に噛みついている。さらに恐ろしいことに、噛みつかれて倒れた人間もまた、数分もしないうちに激しい痙攣を起こし、同じように虚ろな目をして立ち上がっては、別の誰かを襲い始めていた。

「う、嘘だろ……これって、映画とかゲームの中だけの話じゃ……本物の、ゾンビじゃないか……!?」

俺の声は、自分でも情けないほど小刻みに震えていた。
つけたばかりのテレビのニュース画面でも、渋谷や新宿、そしてここから電車ですぐの池袋といった主要ターミナル駅が群衆雪崩とゾンビの群れによって完全に麻痺し、出動した自衛隊の部隊が環状七号線および主要幹線道路を巨大な鉄製バリケードで物理的に封鎖していく映像が映し出されていた。

スタジオのアナウンサーの緊迫した声が、スピーカーから室内に響く。

『繰り返します! 現在、都心部からの脱出ルートは極めて限られております! 練馬区および中野区周辺の生存者の皆様は、自衛隊による一時避難・検疫ポイントである「光が丘公園・特設駐屯地」まで、七十二時間以内に自力で到達できた方のみ、順次輸送ヘリおよび装甲車両での域外脱出が認められます! なお、救出部隊の個別派遣は、感染拡大の速度が想定を遥かに超えており、現在不可能な状態です!』

「七十二時間以内に、光が丘公園まで自力で来いって……ここから何キロあると思ってるんだ……!」

俺は唇を噛み締めながら、窓の外をもう一度見下ろした。
マンションの前の通りは、すでにどこからともなく集まってきた数十体のゾンビたちによって完全に塞がれている。銃も防具もない俺と沙耶さんの二人で、この大群を力づくで突破して数キロ先の光が丘公園まで走り抜けるなど、どう考えても非現実的だった。一歩でも外に出た瞬間、一分も経たずに四方八方から押し倒され、貪り食われて終わりだろう。

(どうする……!? この部屋の冷蔵庫の食料だって、せいぜい数日分しかないぞ……! ここに籠城していても、いずれジリ貧になって詰む……!)

俺が額に冷や汗を流しながら打開策を必死に思考していた、その時だった。
俺のすぐ隣で、じっと窓の外を見下ろしていた沙耶さんが、恐怖にパニックを起こすどころか、まるで興味深いクライアントの競合サイトでも分析するかのように、すっと涼しげな目を細めたのだ。

三階のベランダからの視界

「……ねえ、直哉くん。あそこ、よく見てごらんなさい」

「え? あそこって……あのゾンビの群れですか?」

「ええ。あの自動販売機の横にいる、破れたスーツ姿の人と、赤いジャージ姿の人よ」

沙耶さんが白く細い指で示した先では、二体のゾンビが狭い路地ですれ違うように正面からぶつかっていた。
お互いの肩が激しく接触し、「グゥゥ……」「アァァ……」と威嚇するような低い唸り声を上げているものの、決して相手に噛みつこうとはしない。それどころか、お互いの首筋あたりに鼻先を近づけてひくひくと匂いを嗅ぐような仕草を見せた後、まるで興味を失ったかのように別々の方向へとノロノロと歩き去っていったのだ。

「ほら、やっぱりね。私の仮説通りだわ」

沙耶さんは満足げに大きく頷くと、くるりと俺の方を振り返った。その美しい瞳には、絶望や怯えの色など微塵もなく、むしろ大型プロジェクトの突破口を見つけた時のような、異様な輝きが宿っていた。

「ゾンビはね、ゾンビを襲わないのよ」

「は、はぁ……まあ、映画とかでも共食いはしないって設定はよくありますけど、それがどうかしたんですか?」

「物語の設定じゃなくて、生物学的な選別の問題よ。直哉くん、人間だって、冷蔵庫の奥で何週間も放置されてドロドロに腐ったお肉を見たら、本能的に『これは食べ物じゃない、毒だ』って判断して顔を背けるでしょう? それと全く同じ理屈よ。外の連中は、視覚的な特徴──つまり緩慢で不自然な歩行や死相と、何より体表から発せられる特有の『腐敗臭・不摂生臭』によって、相手がすでに腐っている同族か、それとも新鮮で美味しそうな生きた人間かを判断しているに違いないわ」

俺は思わず目を丸くした。
言われてみれば、確かに階下のゾンビたちは、生きた人間がパニックになって走る足音や、清潔な柔軟剤の香り、あるいは恐怖で噴き出す新鮮な汗の匂いにばかり過剰に反応して群がっているように見える。

「で、でも沙耶さん、その法則が分かったところでどうするんですか? まさか、映画みたいに外のゾンビの血や体液を服に塗りたくってカモフラージュするとか……? そんなことしたら、傷口や粘膜からウイルスに感染する危険が──」

「やだ、直哉くんったら。綺麗好きな私が、そんな不衛生で危険なことをするわけないじゃない」

沙耶さんはクスクスと喉の奥で笑い、自分の豊かな胸元に手を当てて、誇らしげに胸を張った。

「ウイルスに感染なんてしなくても、安全かつ合法的に、あいつら以上のゾンビになる方法が、ここにあるじゃない」

「……は?」

「私と一緒に、今日からしばらくの間、この部屋で極限まで不摂生な生活をして『本物のゾンビ』と化して脱出しましょう!」

「えええええええっ!?」

俺の喉から飛び出した絶叫が、防音性の低い三〇二号室に虚しく木霊した。

三枚の液晶モニターと非常食

「ちょ、ちょっと待ってください沙耶さん! いくらなんでも無茶苦茶です! なに言ってるんですか!? 不摂生な生活をしてゾンビになるって、そんなのただの比喩表現じゃないですか!」

「比喩なんかじゃないわよ、失礼ね。直哉くん、三週間前に初めてこの部屋のチャイムを鳴らした時のこと、もう忘れちゃったの?」

沙耶さんは腰に手を当て、心外だとでも言いたげに美しい眉を吊り上げて唇を尖らせた。

「あの時、ドアを開けた私を見て、直哉くんはどう思った?」

「……えっと、本物のゾンビが出てきたと思って、悲鳴を上げて階段へ逃げようとしました」

「でしょう!? 視力二・〇で頭もハッキリしている健康な人間の直哉くんが、わずか数十センチの至近距離で見て、本能的に『ゾンビだ!』って誤認するレベルの完成度だったのよ! だったら、脳の機能が低下して視覚も嗅覚も大雑把になっている外の連中なんて、私たちの不摂生ゾンビ形態ならイチコロで騙せるに決まってるじゃない!」

あまりの暴論だったが、彼女の謎の説得力と気迫に押されて、俺は一瞬だけ(確かに、あの日の沙耶さんの迫力は、今外を歩いている連中よりよっぽどホラーだったな……)と納得しかけてしまった。いや、駄目だ。納得してどうする。

「で、でも、あれは沙耶さんがたまたま何日も徹夜して、偶然ああなっただけで、狙って再現できるものじゃ……」

「偶然なんかじゃないわ。いいこと、直哉くん」

沙耶さんは一歩踏み出し、俺のすぐ目の前まで迫ると、窓の外で「グアァ……」と間抜けな呻き声を上げているゾンビたちを冷ややかな目で見下ろし、フッと鼻で笑った。
それは、数々の無理難題と理不尽な仕様変更を一人で乗り越えてきた歴戦のWebクリエイターだけが持つ、絶対強者の凄みのある笑みだった。

「私はね、この世界の誰よりも『ゾンビ』というものの本質を熟知しているの。窓の外にいるあいつら? あんなの、ただ未知のウイルスに感染して思考を放棄しただけの、にわか仕込みの素人集団よ。私に言わせれば、あんな連中は本物のゾンビなんかじゃないわ」

(な、なに言ってるんだこのお姉さんは……!? バイオハザードのゾンビに対して、社畜マウントを取り始めたぞ……!?)

ツッコミが追いつかず呆然と立ち尽くす俺の両肩を、沙耶さんはガシリと力強く掴んだ。

「いい? 納品まで残り三時間という段階でクライアントから『やっぱりコンセプトから全部ひっくり返して、ターゲット層も変えましょう』と言われ、空きっ腹にエナジードリンクとカフェイン錠剤を流し込みながら、意識が飛ぶのを太ももにボールペンを突き刺して耐え抜き、東の空が白むとともに魂が肉体から抜け落ちていく……あの煉獄を味わってこそ、真のゾンビよ! いいわ、直哉くん。自衛隊のタイムリミットは七十二時間。これから丸二日半かけて、本物の修羅場をくぐった『本物のゾンビ』がどういうものか、この私が直哉くんの骨の髄まで叩き込んであげる!」

こうして、東京封鎖という未曾有のパンデミックの真っ只中で、俺と沙耶さんによる「光が丘公園脱出のための限界社畜ゾンビ化ブートキャンプ」が幕を開けたのである。

午前三時のデスクライト

「いい、直哉くん。まずは形と環境作りからよ。直哉くんがせっかく綺麗に洗って柔軟剤まで効かせてくれた服だけど、あえて一番ヨレヨレで首元の伸びたスウェットに着替えて。そして、今から脱出までの六十時間、お風呂もシャワーも洗顔も歯磨きも一切禁止! ただし、外のウイルス感染を防ぐために、手洗いと手指のアルコール消毒だけは徹底すること!」

「不潔にするのか清潔にするのか、どっちなんですか!?」

「体表からは不摂生と過労の淀んだ匂いを醸し出しつつ、粘膜感染の急所だけは鉄壁で守るの! これがプロの在宅ワーカーの生存戦略よ!」

沙耶さんの指導は、驚くほど体系的かつ苛烈を極めていた。
まず初日の夜、俺たちは窓の遮光カーテンを隙間なく閉め切ってテープで目張りし、昼夜の感覚を完全に奪う密室を作り上げた。そして、俺が作り置きしていた健康的な肉じゃがや野菜のお浸しをすべてタッパーに入れて冷凍庫へ封印し、代わりに棚の奥から引っ張り出してきた「超大盛りカップ焼きそば(からしマヨネーズ増量)」「ガーリック味のポテトチップス」、そして「劇薬レベルのカフェイン含有量を誇る海外製エナジードリンク」をテーブルに山積みにした。

「さあ、ゾンビ化のための特別ディナーよ! 精製された炭水化物と酸化した脂質、そして過剰なカフェインとニンニクを同時に摂取して、血糖値を乱高下させながら自律神経を強制的にバグらせるの!」

「う、うっぷ……ジャンキーすぎる……俺、夜は野菜中心で腹八分目にして、二十三時には布団に入る生活だったのに……」

「甘いわね! 二十三時なんて、クリエイティブ業界じゃ『午後のおやつタイム』みたいなものよ! ほら、胃に詰め込んだら、この三枚のモニターの前に座って!」

沙耶さんがオフライン環境でモニターに映し出したのは、彼女が過去に手がけた案件の中でも最悪の難易度を誇ったという「クライアントからの赤字修正指示が三百箇所書き込まれた巨大ECサイトのワイヤーフレーム」と、ひたすら目がチカチカする「一万行のダミー商品データ入力用のスプレッドシート」だった。

「これを、今から私の指示通りに一ピクセルの狂いもなく修正・入力してもらうわ。少しでもタイピングの手が止まったり、船を漕いだりしたら、後ろから私が悪魔のクライアントになりきって理不尽な仕様変更を囁き続けるからね!」

「な、なんて恐ろしい精神的拷問だ……!」

一日目、午前三時。
徹夜というものに全く免疫がない俺は、深夜を回ったあたりで早くも猛烈な睡魔に襲われ、頭がカクンと前に落ちそうになった。
しかし、まぶたが三秒以上閉じるたび、すぐ隣の椅子から身を乗り出してきた沙耶さんが、俺の耳元にぴたりと唇を寄せ、悪魔のように甘く、そして背筋が凍るほど冷酷な声を囁いてくるのだ。

「ねえ直哉くん……さっきお願いしたトップバナーの配色だけど、やっぱり『情熱的で燃えるようなのに、どこか知的で冷静な感じの、透明感のある赤』に直してくれないかしら……あと十分でお願いね……ふふっ」

「ぐあああっ! なんだよ透明感のある冷静な赤って! 日本語が破綻してるだろ! ちゃんとRGBのカラーコードで指定しろよおおおっ!」

「ふふっ、いい悲鳴ね! ほら、アドレナリンが出て目が覚めたでしょう? そのまま左手のショートカットキーが止まってるわよ!」

二日目、午後六時。
一睡もできないまま三十時間が経過し、カップ焼きそばとエナジードリンクだけで命を繋いでいた頃──パツンと音を立てて部屋の照明が消えた。
ついに地域の送電網が力尽き、電気が完全に止まったのだ。

「で、電気が落ちた……これで作業も終わりですね……?」

微かな希望を抱いて呟いた俺に、沙耶さんは暗闇の中で怪しく目を光らせた。

「ふふ、甘いわ直哉くん。クリエイターを舐めちゃいけないわ……フル充電のノートPCと、業務用の大容量モバイルバッテリーがあるわ!」

「悪魔だ……この人、本物の悪魔だ……!」

薄暗い部屋の中、ノートPCの青白い明かりに照らされながら、地獄の作業は続行された。
眼球の奥がジンジンと鈍く発熱し、洗面所の鏡で見ずともわかるほど白目は血走り、目の下には沙耶さんとお揃いのドス黒いクマが幾重にも刻まれている。無精髭は伸び、洗っていない髪は皮脂で束になって青白い額にベタリと張り付いていた。
極度の睡眠不足と自律神経の乱れ、ジャンクフードの過剰摂取によって、毛穴からは「酸化した皮脂と疲労物質とニンニクが混ざり合った、重苦しい限界社畜臭」が漂い始めている。

だが、その大容量バッテリーも二日目の深夜には底をつき、どこかのタイミングでノートPCの電源は完全にプツンと落ちていた。
にもかかわらず──極度の疲労と過剰なカフェインによって脳のブレーカーが焼き切れた俺たちには、漆黒の液晶画面の上に、鮮明なワイヤーフレームと無数の修正指示が幻覚として浮かび上がって見えていたのだ。

「あ……あぁ……さや、姉……モニターのドットが、虫みたいに蠢いて見えるよ……CtrlキーとZキーが、指から離れない……」

「うふふ……いいわよ直哉くん、すごくいい死んだ目をしてる……私も、なんだか半年前の大型案件の時の感覚を思い出して、変な脳内物質が出てきたわ……」

電源の切れた真っ暗な画面に向かって狂ったように高速タイピングを続ける俺と、その横で虚空を指差しながら「そこの行、赤字が入ってるわよ」と囁き続ける沙耶さん。

俺の隣で、教官である沙耶さんもまた、急速に「三週間前のあの姿」へと先祖返りを果たしていた。
いや、俺を限界まで追い込むために自らも不眠不休で隣に密着し続けた結果、彼女のゾンビっぷりは三週間前を遥かに凌駕していた。せっかく俺が毎日ブラッシングして美しく整えた黒髪は再びメデューサのように逆立ち、陶器のような肌からは水分と生気が完全に抜け落ち、半開きの口元からは「ふへへ……納期……納期だけは守らなきゃ……サーバーが落ちるぅ……」と、本物の狂気を孕んだうわ言が漏れている。

そして、三日目の早朝──。
六十時間におよぶ完全徹夜と不摂生の極致を成し遂げた俺たちが、朝日を遮断した薄暗い部屋の中でゆっくりと立ち上がった時、全身鏡に映っていたのは、どこからどう見ても「地獄の底から這い出てきたばかりの美男美女の亡者」だった。

「う……ぁぁ……あたま、が……鉛みたいに、おもい……」

俺が言葉を紡ごうとすると、乾ききった声帯が張り付き、自然と地の底から響くような掠れた呻き声になった。
三日間ずっと椅子に座りっぱなしだったせいで下半身に全く力が入らず、一歩踏み出すごとに膝がガクガクと笑って、床をペタペタと引きずるような不自然な歩き方になってしまう。

「す、素晴らしいわ……直哉くん……芸術的よ……」

沙耶さんが、焦点の合わない真っ赤に充血した目で俺を見上げ、土気色の頬を引き攣らせてニタリと笑った。

「その直角に曲がった猫背……完全に光を失った死んだ魚のような瞳孔の開き具合……そして、六十時間の絶望とカフェインとカップ焼きそばが発酵した、この近づくものすべてを拒絶する芳醇なオーラ……! 完璧よ。今の私たちは、東京のどこに出しても恥ずかしくない、トップクリエイター級のゾンビだわ……!」

「う、うぅ……人生で一番嬉しくない褒め言葉だ……」

だが、間違いなく準備は整った。
タイムリミットまでは残り十時間あまり。俺たちは貴重品と最低限の経口補水液だけを服の下のポーチに隠し持ち、わざとスウェットの襟元をだらしなく片肩までずり落とした状態で、三〇二号室の重たいドアを開けた。

千川通りの群衆

外の空気を吸い込んだ瞬間、初夏の生ぬるい湿った風とともに、封鎖された街全体に立ち込める生臭い異臭が鼻をついた。
しかし、驚くべきことに、今の俺たちにはその外の腐敗臭がそこまで不快には感じられなかった。自分たち自身の毛穴と口元から放たれている「徹夜三日目の限界社畜臭」が、強力な見えないバリアのように俺たちの嗅覚を麻痺させていたからだ。

マンションの外階段を、俺たちは文字通り「這うように」下りた。
もはや演技ですらない。六十時間の不眠と極度の疲労で、まともに階段を駆け下りる筋力も平衡感覚も残っていなかっただけだ。錆びた手すりにしがみつき、首をだらりと前に垂らし、一段ずつ足を引きずりながら一階のエントランスへと出る。

エントランスの割れたガラス扉のすぐ外には、すでに五、六体のゾンビが獲物を求めてたむろしていた。
俺たちがガラスの破片を踏みしめて外へ出た瞬間、一番近くにいた血塗れの作業着姿のゾンビが、ギロリと首を不自然な角度に捻ってこちらを向いた。

「グ……アアァァ……ッ!」

(き、来たっ……! 本当にバレないのか!?)

俺の心臓が跳ね上がり、思わずファイティングポーズを取りそうになる。
すると、隣にいた沙耶さんが、俺の冷え切った手を自分の骨ばった冷たい手でギュッと握りしめた。そして彼女は、一切の躊躇なく、唸り声を上げる作業着のゾンビの鼻先三十センチまで足を踏み出し──。

「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ……っ!! し、仕様変更は……もう、勘弁してぇぇぇ……っ!! 予算内で収まるわけないでしょおおおぉぉ……っ!!」

魂の底から絞り出すような、積年の怨念と過労の塊のようなドス黒い呻き声を、相手の顔面に向かって真正面から浴びせかけたのだ。

その瞬間、信じられない奇跡が起きた。
俺たちに飛びかかろうとしていた作業着のゾンビが、ビクッと全身を痙攣させて一歩、二歩と後ずさったのである。
それだけではない。沙耶さんの全身から立ち昇る「本物の修羅場をくぐり抜けた者特有の、底なしの絶望オーラ」と、毛細血管が切れまくった三白眼の凄まじい迫力に圧倒されたのか、周囲を取り囲んでいた他のゾンビたちまでが(コイツら、俺たちよりよっぽどヤバい状態に腐ってるぞ……!)とでも言いたげに、スッと左右へ道を開けたのだ。

(す、すげえ……! 襲われないどころか、本物のゾンビたちが完全に気圧されて道を譲ってるぞ……!)

「ほ、ほら直哉くん……今のうちに歩くわよ……あ、駄目よ、緊張して背筋を伸ばしちゃ。もっとこう、みぞおちのあたりに冷たい鉛が詰まってるイメージで、首を前に突き出して引きずるのよ……」

「う、うぅ……こ、こうですか……?」

「あ゛あ゛……だ、大学の必修単位が……レポートの文字数が足りないぃぃ……」

俺も沙耶さんの指導に倣って、新入生特有の不安と六十時間の徹夜の苦しみを混ぜ合わせたリアルな呻き声を漏らしながら、千鳥足で江古田の路地を歩き始めた。
沙耶さんの作戦は、恐ろしいほど完璧に機能していた。
大通りである千川通りへ出ると、そこには数百体規模のゾンビの群れがひしめき合っていたのだが、俺たちが手を繋いでヨロヨロとその真ん中へ割り込んでいっても、誰一人として俺たちを「新鮮な生きた人間」だとは認識しなかった。

たまに嗅覚の鋭い個体が不審そうに顔を近づけてきても、俺と沙耶さんが同時に焦点の合わない虚ろな目でそいつをジッと見つめ返し、「「ぬ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛……っ」」と徹夜明けの胃からせり上がってくるようなドス黒い溜息を吐きかけると、相手は「あ、完全に同族(しかも末期)だわ」と納得して、そそくさと別の方向へ離れていく。

「ふふ……見たこと、直哉くん……。これが、東京の荒波を生き抜いてきた本物のゾンビの実力よ……」

「さ、沙耶さん……頼むからその顔で笑わないでください、周りのゾンビより百倍怖いです……」

俺たちは、今にも折れそうな互いの身体を支え合うようにして、一歩、また一歩と荒廃した練馬の街を北へと進んでいった。
普段の健康な状態なら歩いて四十分ほどの光が丘公園までの道のりが、まるで砂漠を横断するかのように果てしなく遠く感じられる。極度の睡眠不足で意識が何度もブラックアウトしかける中、俺の感覚を現実に繋ぎ止めていたのは、しっかりと握りしめられた沙耶さんの細い指先の感触だけだった。

こんな悪夢のような極限状態だというのに、そしてお互いボロボロのゾンビのような酷い姿だというのに、彼女が「直哉くん……私から離れないでね……」と俺の肩に頭を預けてくるたび、俺の胸の奥には不思議と甘く温かいものが灯っていた。

光が丘公園・第二ゲート前

足をひきずりながら歩き始めてから、二時間以上が経過した頃だろうか。
ついに俺たちの霞む視界の先に、豊かな緑を湛えた巨大な公園──光が丘公園の入り口と、そこを幾重にも取り囲む自衛隊のオリーブドラブ色の軽装甲機動車、そして有刺鉄線のバリケードが見えてきた。

『こちら避難誘導部隊! 生存者は両手を頭の上に挙げて、ゆっくりと第二ゲートへ近づいてください! 急に走ったり、不審な動きをした場合は感染者とみなして威嚇射撃を行います!』

拡声器からの隊員の緊迫した声が、朝の空気を切り裂いて響き渡る。
バリケードの手前百メートルほどの緩衝地帯は、自衛隊によってすでに掃討されたのかゾンビの数がまばらになっていた。俺たちは残された最後の気力を振り絞り、ゾンビの群れから抜け出して検疫ゲートへと近づいていった。

しかし、ゲートまであと三十メートルという地点に差し掛かった時、監視塔の上にいた狙撃手の隊員が双眼鏡で俺たちの姿を捉え、慌てたように無線機へ向かって怒鳴り声を上げた。

『総員、警戒しろ! 正面から新手のゾンビが二体、手を繋いで接近してくるぞ! しかも見ろ、あの女の方の異常な目のクマと、この世のすべてを呪うような怨念に満ちた顔つきを! ただの感染者じゃない、間違いなく特殊変異個体(ボス級)だ!!』

ガチャリ、と複数の小銃の安全装置が外される音が響いた。

「ち、違いますううううっ!! 撃たないでください! 人間です! ただの三日徹夜明けの人間ですうううっ!!」

俺は枯れかけた喉から全力で人間の言葉を叫び、沙耶さんの手を取って高く空へと掲げた。
隣で沙耶さんも、ハッと我に返ったように猫背を伸ばし、「私、健康な人間です」とアピールするために必死に営業スマイルを浮かべようとした──が、六十時間酷使された顔面筋肉が完全に引き攣り、口角だけが不自然に釣り上がった世にも恐ろしいアルカイックスマイルになってしまったため、隊員たちが「ひぃっ! ボス個体が笑ったぞ!?」とパニックになりかけた。
俺は慌てて沙耶さんの後頭部を自分の胸に抱き寄せて、その凶悪な笑顔を物理的に隠した。

「頼みます! 撃たないでください! この人はウイルスになんて感染してません! ただの、クライアントの仕様変更でちょっと働きすぎただけの、俺の大切なお姉さんなんです!!」

俺の魂の叫びが通じたのか、防護服とガスマスクを着用した医療班と隊員たちが、恐る恐るゲートを少しだけ開けて駆け寄ってきた。
非接触型の体温計と、指先から採血する簡易検査キットによる厳重なチェックがその場で行われ、待つこと数分。
俺たちの血液に未知のウイルス反応が一切ないこと──ただ単に、極度の睡眠不足とカフェイン中毒、および炭水化物と脂質の過剰摂取による「純粋かつ重度の人間的衰弱(社畜症状)」であることが科学的に証明されると、医療班の軍医はガスマスクの奥で呆れ果てたように深い溜息をついた。

「……君たちね、どうやってあの何千という感染者の大群の中を無傷で歩いて抜けてきたのかと思ったら……ある意味、外の連中より過酷で不健康な状態じゃないか。これ以上放置したら過労で本当にゾンビになるぞ。すぐに救護テントへ運んで、点滴と絶対安静だ!」

「あ、ありがとうございます……っ」

張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた瞬間、俺と沙耶さんは同時に膝から崩れ落ち、担架の上へとへたり込んだ。

救護テントの毛布の中で

特設駐屯地の奥にある清潔な医療用テントに運び込まれた俺たちは、特別に許可された温水シャワーで三日分の汗と皮脂とカップ焼きそばの匂いを綺麗に洗い流し、支給された清潔な白いスウェットに着替えてから、隣り合う簡易ベッドへと倒れ込んだ。

左腕には、ビタミンとブドウ糖、そして生理食塩水の点滴が繋がれている。
テントの厚い布地を透かして入ってくる午後の柔らかな日差しの中、俺は六十時間ぶりの解放感に包まれながら、泥のように深い眠りへと落ちる寸前だった。

カサ……ッ、カサ……ッ

すぐ隣のベッドから、シーツが擦れる小さな音がした。
重たいまぶたをうっすらと開けると、いつの間にか点滴スタンドをガラガラと引きずって移動してきた沙耶さんが、俺の狭い簡易ベッドの毛布の中へと、仔猫のようにモゾモゾと滑り込んでくるところだった。

「さ、沙耶さん……? せ、狭いですよ、簡易ベッドだから二人で寝たら床に落ちちゃいますって……」

「んぅ……いいの。だって、一人で寝ると、まだ三枚のモニターのちらつきと赤字の修正指示が夢に出てきそうなんだもの……ねえ直哉くん、落ちないように、ぎゅうって抱きしめて……?」

シャワーを浴びて、本来の清楚で息を呑むほど美しい姿に完全復活した沙耶さんが、俺の胸元に顔を埋め、甘えるように頬をすり寄せてくる。
その濡れた黒髪からは、駐屯地で支給された石鹸の清潔で優しい香りがした。三日間の過酷で不衛生なゾンビ生活を経たせいか、毛布の中で触れ合う彼女の肌の温もりと柔らかさが、これまで以上に鮮烈に全身へと伝わってくる。

「……今回ばかりは、色んな意味で本当に死ぬかと思いましたよ」

俺が苦笑しながら、点滴のチューブが絡まらないように気をつけて彼女の華奢な背中をそっと抱きしめると、沙耶さんは俺の胸の中でくすぐったそうに目を細めた。

「ふふ……でも、私の言った通りだったでしょう? 直哉くんが私を信じて、一緒に本物のゾンビになってくれたおかげで、こうして二人とも無傷で生き延びられたんだから」

彼女は少しだけ顔を上げ、トロンと潤んだ瞳で俺の唇をじっと見つめた後、いつもの小悪魔めいたいたずらっぽい微笑みを浮かべた。

「ねえ、直哉くん。自衛隊のヘリで長野に避難して、いつか東京の封鎖が解けて平和な日常が戻ったら……もう私を、絶対にあんなゾンビにはさせないでね?」

「もちろんです。毎日ちゃんと三食、栄養バランスの取れた温かいご飯を作って、夜中の二十三時にはブレーカーごとパソコンの電源を落としますから」

「ん……約束よ。じゃあ、これからもずっと、私のお世話係……ううん、私のたった一人のパートナーとして、一生隣にいてくれるわね?」

「……っ、はい。喜んで」

俺が顔を赤くしながらも力強く頷くと、沙耶さんは嬉しそうに目を細め、背伸びをするようにして俺の首筋にチュッと小さなキスを落とした。
その驚くほど柔らかい唇の感触に、俺の六十時間分の眠気は一瞬で吹き飛びそうになったが、イタズラを仕掛けた当の本人は満足しきった幸せそうな表情で、俺の胸に顔を埋めたまま、すでに規則正しい寝息を立て始めていた。

(まったく……どこまで俺をドキドキさせれば気が済むんだか)

俺は愛おしそうに彼女の艶やかな黒髪を優しく撫でると、今度こそ自分もゆっくりと目を閉じ、彼女と二人きりの温かな眠りの底へと身を委ねた。
こうして俺たちの、世にも奇妙で甘酸っぱい「ゾンビ脱出劇」は、最高のハッピーエンドとともに幕を閉じたのだった。

こちらもおすすめの怪談

一覧へ戻る ›